よく、人は此の苦しみの世に生まれさせられてきたことを嘆いて
此の世に誕生したその瞬間に泣くのだといいます
しかし、私はそれは違うと思うのです――
いいえ、それが本当はうれし泣きで
明るい未来を慶んでだとか
そういう事を言いたいのではなく
もっと根源的なこと――
人は、生まれだけは選べません
生まれた以上は苦しみを生き抜き
そして最後には死に絶えねばなりません
それはとても理不尽な事です
しかし人はその理不尽を生きねばなりません
だけれども、それも違うと私は思うのです――
いいえ、楽土とか、転生だとかそういう事を言うつもりはないのですが
人は生まれを選べぬというのは果たして本当なのでしょうか
三つ子は生まれる前の記憶さえ持つといわれますが
生憎、背丈の伸びきってしまった私にはそんなことはもうとうにわかりません
もしかしたら私たちは
己の生まれを選べていたのではないでしょうか
――ただ、忘れてしまっているだけで
だとしたら、覚えていないのを口実に選べぬ生を嘆くのは
それはとてもずるい事でさえないかとも思うのです
何としてどのように生まれたいか
或いは、その存在として生まれることを拒むか
もしかしたら私たちは選べていたのかも知れません
――ただ、後になってそのことを忘れてしまうだけで
私たちが此の世に生まれた瞬間泣いているのは
もしかしたら時の不可逆性というものに対して
嘆き、恐れているのかも知れません
選べるか否かはそう考えれば判りかねますが
ただ
おなじ人生をやり直してもう一度というのだけはきかぬようですから――
もしや、そんなことを恐れての
後悔の嘆きなのかも知れません
……私の言葉も、妄想に過ぎないのかもしれません
※※さすがに、芥川龍之介の『河童』にまで手を出す人はいないかな……。それは無理でも、『I was born』なら知ってます? 芥川龍之介の『河童』は、河童が自ら此の世に生まれてくるか否かを選べる、というお話。『I was born』は人は「生まれる(能動態)」のではなく「生まれさせられる(受動態)」のだという詩です。まあ、それにちょっと物申してみたかったんです。生死は理不尽なものというけれど、こう言う考え方だってできるでしょう?