どうして、であってしまったんだろう。
 時折、そう思う。
 けれど、感謝している。悔しいくらい。

     *****

「だから嫌だったんだ」
 緋夕はかなりげんなりとした顔で呟いたのに対し、葉月のほうはむしろ目を輝かせている。
「えーでもでも、すっごいよかったじゃん」
 6月。一般的な高校3年生なら、受験のことを意識し始める時期。
 ……に、あるまじき行動を、二人はとっていた。
「人ごみ見にいったか映画見に行ったかよくわかんなかったし」
「そりゃ、話題作らしいし立ち見はしょうがないって」
 一言でいえば、映画を見に行ったわけである。貴重な日曜日を、見事につぶしにかかったというわけだ。
 しかもその映画、有名なアニメーターの監督の新作なのである。思わず、ヲタク心に火がついてしまったことは言うまでもない。
 やたらキャラこそ明るいし、人付き合いの輪はむしろ広いほうだが、それでも葉月は一般にいう『おたく』の分類である。この夏も盆は忙しいといっていたが、その理由は推して知るべし、である。
「ユウだって見たいゆってたじゃん」
「それはそーだけど……」
 たしかにいった。実際映画の内容は話題作だけあってよかった。
 ただ、話題作であることが問題なのだ。
 体力的にはツラくない。けれど、映画の立ち見など人ごみ嫌いでこの背の緋夕には、ちょっとした地獄である。
 呟き、ひとつため息をつく。当日券では仕方ない。
「ま。早めの時間で見れただけましじゃない?」
 たしかに、ちらと時計を見やればその針はまだ12時前をさしている。
 暗闇と冷房から、6月にはあるまじき陽光とそれの作る熱気に体はすでにほとんど順応している。
「どうする? お昼にするにはちょっと早いけど」
 どうしようか。このあたりは古本屋が結構多いから、そこに立ち寄って時間をつぶすというのもありだけど。
 映画館の前にある公園では、ホームドラマそのもののような家族の光景が広がっている。なるほどアレが普通の、幸せな家族というものなのか。
「今の時間帯なら、まあ並ばずに座れるんじゃない?」
 どうしようか決めあぐねている緋夕に、葉月が指摘する。
「行きがけに喫茶店なかったっけ」
 それもそうだと思って、そういえば、と思い出し緋夕が提案する。
「高いよ?」
 あのまずいナポリタンに750円、いや税込価格787円をはらうのは、高校生にとっては至難の技だ。
「……母さんからバイト代が出たから」
 口調が重たくって複雑なわけは、葉月ももちろん知っている。
「ああ、真理恵さん今個展やってるんだっけ」
 その手伝いをしたバイト代というわけか。
「それに、なんか映画の半券持ってくと割引とか書いてあった気がしたんだけど」
 なるほど、それがもうひとつの理由か。そういわれてみればそんな店がこのあたりにあった気がする。
「なんだ、見に行きたかったなー」
 茶化すように、ポツリと葉月が呟く。
「真理恵さんのお花を?」
 たしかに、その世界では母は有名人らしいが、この幼馴染はそういった芸術作品とかその手のものの観賞法がひたすら自己流なので、そんなところにいってもそこまで楽しめないのではないか。
 そう思ったところに、すばらしい返答がかえってくる。
「と、ヒナちゃん」
 顔は真面目だ。余計にいやだ。
「絶対来るな」
 小柄で淡白な顔立ちだから、緋夕は女物の服や格好をさせると似合うのだ。
 着付けのときに体格修正のための布地を少々多めに巻けば、あっさりとしたその顔には、着物は特によく似合う。
 ちょっと化粧にこれば、その辺の男をオトすこととてわけないほどに。
 そんなこんなで、それをいいことに緋夕の母は、よく自分の個展の手伝いだのなんだのを、させている。いわば秘書のようなものといってもよいだろうか。そのときに、緋夕は自分の本名でなく(まあ、この名を使ったところで性別はばれやしないが)、『ヒナキ』と名乗ることが多い。
 もっとも、そういったことをさせるのは半ば母の趣味であることを、幼いころからその手の格好をよくさせられていた緋夕は痛感している。
「だったらやめればいいのに」
 うん、その指摘はすばらしく痛い。痛いのだが……
「日給2万」
 それで子ども拘束する親ってのもどうよ。けれど、高校生の身空でそれだけの大金をそれだけのコトで稼げるなど、どれだけおいしいことだろう。
「……ユウ、しばらく真理恵さんに勝てないね」
 しばらくどころか永遠に勝てないんじゃないか、そんな不安を緋夕はすんでで飲み込んだ。
 代わりに何かいおうとしたところで、葉月のほうが目当ての店の張り紙に気づいた。
 なるほど、たしかに近くにあった。
「あ、ホントに割引。当日券でよかったじゃん。でもここ、禁煙席別れてないよ?」
 立ち見の代償に、消費税分だけの割引。なんだか運がいいのか悪いのか。
 運のいい葉月とあまりよくない緋夕が一緒にいると、得てしてこういうことが起こるのだ。
「まぁ、それくらいは我慢できるって」
 と、店に入って空いてる席に着こうとしたとき、それが目に止まる。
 タバコとライター。喫茶店の忘れ物なら、さほど珍しくはないものだ。
 タバコはフィリップモリスのメンソールで、ライターのほうは、ジッポ式のいかにも高級そうなやつ。
「あれ、前の人の忘れもんかな」
 と、手にとった瞬間――ふと、緋夕が言葉に詰まる。
 ん? と一瞬葉月が思うが、
「ああ、あの人だ。届けてくる」
 窓の外から見える人影をみて、いうなり緋夕は追いかける。
 なぜ、という疑問はべつに葉月にはわかない。ただ、珍しいな、とだけ思った。


 たぶん、彼からみたら小さいな、というのが緋夕の第一印象だったのだろう。
 実際、165cmしかないわけだから、同輩と比べても家族と比べても(といっても緋夕の家族とてそんなに長身な方ではないのだが)緋夕の背はかなり低い。
 『一番伸びる時期に病気しちゃったから、仕方ないわね』というのは母の言だ。
「すいません、あそこのお店に、これ忘れてきませんでした?」
 と、声をかけてみる。頭ひとつ分その背丈には差があるので、指線をあわすのには自然、見上げる動作になる。これくらいは慣れっこだ。
 いくつくらいだろう。どうもよく年の程はわからない。若く見えるけど、全体的な雰囲気はひどく落ち着いた感じだし、もしかしたら一番上の兄と同じくらいの年齢かもしれない。まあ、うちの家族も見た目で年を計れないから、人のことはいえないだろう。
 スーツこそ着ているが、ノータイで何よりやや長めの髪を後ろでひとつに束ねている。
 今、仕事帰りという人種の人々だろうか。
 そういえば裏道にはいれば、このあたりはピンク色のネオンの看板も多い。
「……せっかく、禁煙しようと思ってたところだったんだけどな」
 聞き取れるか否かの声量。ほとんど、完全なる独語。
 けれど、緋夕はそれを聞き漏らさなかった。
「奥さんからの大事なプレゼントでしょ?」
 ただ単にそれは、ぱっとみ、彼の交友関係は比較的薄そうなこと、そして左手薬指に指輪がはまっていたことから類推して導き出した、推論に過ぎない。
 もちろん、その前に緋夕の『力』があってこその結論なのだが。
「気持ちだけはそばにあることができるんだからさ、とっときなよ」
 え、と彼は思ったらしい。戸惑うような仕草と表情を見せていたことには気づいたものの、
「じゃあ、こっちは没収!」
 といって、緋夕はタバコのほうだけを取り上げる。
 そのままきびすを返し、さっきの喫茶店に帰ろうとして……
「ああ、そうだ、きっと、あなたは愛されていたと思うよ。そんなに強い思いを残してくれる人だもの」
 不意に思いつき、振り返りざまそう声をかける。
 その人に対しては結局謎を振りまくだけ振りまいて去っていったことになるがまあいいだろう。
 とりあえず、葉月が注文をもう済ませてくれているといいのだが。


 おかえりー、と、うれしいことに二人分の注文をすでに済ませていた葉月は帰ってきた緋夕にのほほん、とそんな声をかけた。何を頼んだかはわからないが、葉月のこと、それでも一般の高校生男子並には食べるが肉嫌いな緋夕の趣向ついてはよくわかってくれているだろう。
「珍しいね。サイコメトリーだ」
 一言でいえば、緋夕は霊感が鋭い。といってもそれでサイキックファンタジーの主人公になれるほどではないが。
 一瞬驚くが、まあ、付き合いが長い彼女のこと、自分の『力』についてもわかっているからな、と思って緋夕はポツリと呟いた。
「んー、なんかここまでハッキリと『見えた』ってのも珍しいんだけど……」
 モノにだって、意思は残るもの。それを、なんとなく感じ取るくらいのことはできる。ただ、そこまでハッキリとした思念を、あんなにも鮮明な映像で受け取ったのは、初めての経験だった。
 もっともそれを、いま言語的に表現しろ、といわれると難しい。
「結局なんだったの?」
 いろいろな説明をとにかくすっ飛ばした質問だが、
「たぶん、奥さんからの贈り物……だと思うんだけど」
 と、おそらく葉月が望む回答を緋夕は返した。
「ほー。洒落てるねぇ……、ってか、よくわかったね?」
 皮肉ったようにさえ聞こえるそのセリフでも、葉月の口から漏れると心地よい響きになるから、不思議だ。
「ああ、指輪してたから、その人」
 またしても、いろんな説明を省いた設問に、こちらも説明を省いた回答を緋夕は返す。
「愛されてたのかなぁ……」
 と、ふと葉月はもらした。
「たぶんね」
 と、緋夕も短く回答する。
 ただ、残念なことに――思念の主は、もうこの世にはいない存在のようだった。
 そのことに気づいたのか否か、葉月はそのあと少し黙っていた。
 だけど。だけど、不意に言葉に詰まる。
 何だろう、この感覚は。たしかに、誰かに伝えたかったこと、伝えたかった言葉。
 それが、思い出せそうな気がしたのに。
「で、未成年にあるまじきその物体は何?」
 結局緋夕がその後、何も切り出さなかったので、その手の内にあるタバコに気づいて、声をかけた。
「ああ、なんか、うっかり話の流れで没収してきちゃった」
 といって、意味もなく葉月に手渡してみる。
「没収、ねぇ……」
 呟いて、葉月はすちゃすちゃ、っと慣れた手つきでいじっている。
 口に咥えて、店のマッチをいじりだしたところで思わずつっこむ。
「吸うなよ」
「吸わないって。だいいちこんな軽いタバコじゃ吸った気にもなれないって」
 まったく、未成年にあるまじきコトを。
「ま、もうすっぱりやめたしね。タバコもお酒も夜遊びも」
 遠くを見つめるような目。この幼馴染の親友が、3年ほど前、いったいどれほどすさんでいた生活をしていたのか、緋夕には知る由もない。
「そーしとけそーしとけ。人間健康が一番だ」
「ユウがいうと重いねぇ……」
「そうか?」
 うん、むちゃめちゃ重たいです。
「けど、ずいぶん女っぽいタバコ吸う人だねー」
 なんとなく、過去を思い出してしまうような話題を切り替えたくなって、ふと葉月は呟く。
 話の流れからして、ライターを返したのは男性にじゃないか。
「そうなの?」
 あいにく、喫煙習慣のある家族をもたない(無論自分にも経験はない)緋夕にとってはタバコの銘柄の識別などできるべくもない。
 そういえばあの推理小説で描写されてたな、といった程度に思い出せるだけだ。
「女の人が吸うタバコとは限らないけどね」
 火もつけていない咥えただけのそのタバコを、葉月は灰皿に押し付けてつぶした。
 ハッカ臭い香りが、それでも口の中に残っている。


「ほー、ナポリタン2皿食べたってのにごーせーだね……」
 珍しく、葉月が辛辣につっこんでくる。
「そーでもない……」
 対する緋夕は、げんなりと呟いた。イタイ、そのツッコミはとってもイタイ。
 たしかにそれは失敗だった。いや、実際自分の胃のサイズに量はそれで丁度よかったのは事実なのだが。
 問題は、フトコロはかえって寒いことなのだ。そういえば、と思い立って参考書を買いにいったら、今更ながらに立ち寄った本屋で楽しみにしていた単行本の発売日が重なってしまっていたことに気づいたのだ。おかげで、予想外に出費がかさんでしまったのだ。頼みの綱の図書カードもいつの間にやら度数が切れていた。
 これで、夕飯も外食で済まそうとなると、たしかに一見豪勢に思えるかもしれない。
 しかし、それとてさまざまな事象を考慮に入れた上で、選び取った結論なのだ。
 そのことに葉月も気づいてか、その道を歩きながらいった。
「なんだ、夕飯も外で食べるって言ってたからどういうことかと思ったら、美冬ちゃんのお店行くのか」
 最寄り駅からは、徒歩10分。だが、自宅とは反対方向。大通りをちょっと外れた横道の裏道にある、一軒の小料理屋。看板も、そのまま『小料理屋・美冬』と彼女の名がかかっている。
 美冬というのは……緋夕の『姉』の名である。
「そういうこと。こんばんわ〜」
 がら、と引き戸を開けて声をかける。開店時刻にはまだ早いが、鍵は幸いかかってないようだ。
「ごめんなさーい、まだお店開くには……って、なんだひーちゃんか。どうしたの?」
 出迎えてくれた店主は、着物を着た背の高い女性だ。親子だけあって真理恵さんともけっこう似てるし、兄弟だけあって緋夕ともよく似ている。まあ、もっといってしまえば女物の格好をさせた緋夕のほうが、当然彼女にはよく似るわけだが。
 調理台の高さのせいもあって、彼女の背は女性としては妙に高く見える。初めてここを訪ねてきた人は、だからその調理台の高さのほうを実は見誤る。『彼女』は、緋夕の家族の中で一番の長身をもつわけだから。
「今日市江さんお休みの日だったの忘れてて。美冬ちゃんのお店にご飯食べに来た」
 市江さん、というのは緋夕の家の住み込みの家政婦さんの名前だ。しかし正確には家政婦とはいいがたい。若い人だし、せいぜいが『同居人』くらいだ。基本的に住み込みなのだが、時折実家のほうにも帰っているようで、丁度その日にあたってしまったのだ。
「あら、ありがたい。奮発しちゃおうかしら」
 つやっぽい唇を婀娜っぽく震わせて、彼女は呟いた。
「や、手伝いなんかやるからさ、まかない食べさして。お昼に喫茶店はいったら思ったより使っちゃって……」
 申し訳なさそうに呟く緋夕に、実に静かにイタいツッコミを葉月がしてくる。
「……だからナポリタン2皿にコーヒーフロートは痛いって」
 そう、それも失敗だった。なんだかあのアイスクリームをみたら、無傷に食べたくなって頼んだのが失敗だった。
 いや、フロートは確かにおいしかったし結構満足できたわけなんだけども。
 つまりは、見た目の割には緋夕は食べる。要するに燃費が悪いのだ。
「……喫茶店はいったの?」
 高校生にしてはゼエタクな。
「半券もってくと割引だったから。真理恵さんからバイト代でたし」
 不審そうに呟いたので思わずそう返したが、
「あら、見に行けばよかった」
 と返されたのでまた少々へこんだ。
 なにを、とはつっ込まない。どうせ葉月と同じ回答が返ってくるに決まってる。
「自分で作ればいいじゃない……」
 もちろん店を開く彼女ほどではないものの、手先の器用な緋夕のこと、料理くらいは人並みかそれ以上にこなせる。
「……めぼしい食材も今切らしてるの」
 秤にかけたら、ここで多少タダ働きする変わりに安いご飯を食べさせてもらうのが得策だと考えたわけである。
「まあ、いいわよ、たまには。どうせ疲れてるんでしょ、お店のメニューはだめだけど、まかないくらいつけたげるわ」
「わ、やった。ありがと美冬ちゃん。あ、そーだ、そういえばちょっと処分に困ったブツがあるんだけど……」
 礼を述べるとともに、結局何故か葉月がもってしまっていた例の『没収物』を差し出す。
 とりあえず、少なくとも未成年がもっている物体ではなかったので。
「タバコ……? どうしたの? 開封済みだし」
「いや。ユウが」
 買ったということは無論ないだろう。なれないものにとってはそんなもの有害な煙を撒き散らし、火も点っている危険物でしかない。とうことは……
「どこのお姉さんからもらったのかなー」
「いや、違うって。ここまで残ってるとなんか捨てるのも惜しいしどうすべきかと」
「あと、そいえばモガちゃんもうすぐ帰ってくるらしいけど。またここのお店きたいっていってたよ」
 ちゃっかりつきだしをつまみながら、葉月はぽつりといった。
 柳平最上(やなひら・もがみ)。通称モガちゃん。葉月の姉たる彼女は、藍河美冬の唯一にして最大の弱点。たしか同級生だったはずだと聞き及んでいる。
「そいうえば、結局ひーちゃんのクラスって劇やるの?」
 とりあえず触れないでおこうと、話題転換を彼女自身がした。
「……くじ引きに負けた」
 ああ、と納得する。たしかに緋夕にくじをひかせてはいけない。
 勘が鋭いから『読み』の重要な賭け事は勝てても、運はないから『引き』の重要な賭け事にはめったに勝てない。
「劇かぁ。懐かしいなぁ……」
「美冬ちゃんのヒリエッタは伝説だもんね」
 料理と同時に、演技もまた彼女の得意技のひとつである。
 たしか、オリジナルの脚本なんじゃなかったろうか。すごく斬新な内容で、けれど役者に求められる演技力もハンパではないような劇だったらしい。
 噂にはきいたことがあるが、しかしここまで世代が離れてしまうとあくまで噂程度になってしまう。
「というわけでがんばれヒリエッタ」
 ぽん、と葉月が緋夕の肩をたたく。これほどの適役もいなかろう。
「どこをどーゆ〜流れにすればそうなる?」
 名前からして、当然女役。正確にはそうとさえいいがたいような場面も出てくる劇だったりもするわけだが。
 はっぱをかけるような発言を思いついて、口にしようとしたとき、扉を開ける音がして人がはいってくる。客……だろうか。
「こんばんわ〜」
 夕刻の開店時間よりやや早めだが、仕込みも終わってるしまあ客を取り出してもいいころかもしれない。
「いらっしゃいませ」と型どおりの挨拶を、店主がかけるより先。緋夕と客の指線が合って、思わず互いに『あ』と声をもらす。
 そう、今日の昼、会ったばかりの人だ。
「え、じゃあ、そっか、日下さんだったのね」
 女っぽい銘柄のタバコを吸うその人の、彼女は知り合いだった。
「あれ? 知り合い?」
「前のお店のおなじみさん〜」
 前の店。ということは、だ。そう、たしか『彼女』は以前水商売にも手を出していた。
 おかしい。解せない。とっても気になるし、でも聞いていいものなのかどうかすっごく戸惑うんだけれど……
 どうしても、緋夕はきいてしまった。
「……………そういうシュミなの?」
 藍河美冬、……その本名は望月正三という。
 正確にいえば、『彼女』は緋夕の『姉』ではなく三番目の兄に当たるのだ。
「ひーちゃん」
 にっこりと笑ってこそいるが。
 ……えと、美冬ちゃん、笑顔が恐いです。
「いや、偶然別な場所で知り合っただけ。飲み友達とでもいうのかな、この場合」
 とりあえず、フォローはその人自身が入れてくれたので、彼のほうに声をかける。
「クサカさんって言うんだ」
 といったら恐らくその字を当てるんだろう、と自分にしては珍しく漢字を知っていた名に、そういっている最中におや? とふと思う。
「ああ、うん。時々読めない人もいるね」
「下の名前は? なんていうの?」
 予感めいたものに近しいには近しい。が、気づいてみれば単なる酔狂だ。
「アキラ」
「明るい、か暁、って字?」
「いや、怜いって字。りっしんべんのほうの」
 ザンネン、とポツリと緋夕が呟いたのを聞き漏らさなかった葉月は気づいたようで「ああ、対にはならないね」と声をかけた。
 そのおかげで彼女も気づいたようで、
「ちょっと苦しくない?」
 と苦笑する。う〜ん、やっぱりそうだろうか。
「えと、弟さん、とか?」
 別段、素顔に私服で女に間違われるほどの顔立ちというわけではない。
 比較的、美冬ちゃんとも顔立ちの作りも似てるし、そう思われても不自然ではない。
「うん。そう、あ、こっちは……」
 あれ? そういえば、何と紹介すべきなんだろう。
「ユウの幼馴染の友達でーす」
 適切な言葉を見出すのに、一瞬詰まった緋夕の代わりに、葉月は自分から名乗り出た。
 それでイイ……んだろうか。
 日下さん、と呼ばれた彼のほうは、緋夕のことをじっとみて問う。
「……今中学生くらい?」
 いや、慣れっこだけども。
 それでもへこむ。
「……高校3年生」
 と、もらすように、ぽつりと緋夕は呟いた。
「あ……ごめん。あれ? 名前はなんっていうの?」
 さすがに予想と差があきすぎていたので、おまけにかなりへこんだ様子で答えられてしまったので、反射的に謝ってしまった。
 ひーちゃん、もしくはユウと呼ばれたようだが、何という名前なのだろう。
「ああ、ヒユウっていうの。満月の望月に、緋色の夕焼け、で望月緋夕」
「なるほどね」
 それで、『対にはならない』と下の名の漢字を告げたときにいわれたというわけか。
「けど、かえってきちゃったね。せっかく禁煙しようと思ってたみたいなのに」
 笑って、緋夕はタバコを彼に返す。仕方ない、これも巡り合わせというやつだろう。
 そう……まさか『その人』に会ってしまうなんて。予感は確信に変わっていたけれど、どうするべきか、緋夕は悩んだ。

     *****

 夜。
 今年は(今年もというべきか)6月にしては暑い日が続くが、さすがに熱帯夜をもたらすほどではない。
 それでも緋夕はなかなか寝つけずにいた。
「まさか、会っちゃうなんてなぁ……」
 暗がりの中、天井からぶら下がる電灯の紐を無意味に眺めながらポツリと呟く。
 どうしようか。だいいち確証はもてていない。
 ただ、どうしようもないほどの直感があるというだけ。けれど、確信している。
 そう、たぶん、あの人だ。会ってはならない。会うはずもなかった。元来、交わってはならない存在。
 だけど、不意に言葉に詰まる。
 涙がこみ上げてくるほどの懐かしさにさえ近い感覚。
 何だろう、この感覚は。たしかに、誰かに伝えたかったこと、伝えたかった言葉。
 それが、思い出せそうな気がしたのに。
 悩みに悩んで――
 結局、緋夕は睡眠をあきらめて筆をとることにした。
「ハッカくさいな……」
 こっそり一本拝借したそのタバコを咥えて、緋夕はポツリと呟いた。


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