けれど、わたしは感謝している。悔しいくらいに。
 それでもわたしはあなたを感じているから。
 気持ちだけは、ずっとそばにいるから。

     *****

 樟脳の香りが、鼻をくすぐる。
「れ? えっと、帯締め…がこうなって、伊達巻き……がああなるから……」
 ぶつぶつ、と葉月が呟いている。
「だから、手伝ってやろうか?」
 ふすま越し、呆れたような緋夕の声がする。
 7月。夏期講習だの指定校推薦だのAO入試だのあわただしく、い〜かげん受験を意識し始める時期。
 ……に、あるまじき行為を二人ともしていた。
 夏休みなのだ。このうきうきわくわくどきどきを、そんな、祭りにぶつけないでどうする。
 ちょうど、地元で花火大会があるのだ。
「帯の巻きがこっちに来てああなる……からこうなって……れ? おはしょり足りない?」
 葉月の呟きが、またも聞こえてくる。
 祭りといえば浴衣である。日本人なら、これくらい自分ひとりで着付けられなくては。
 と、決意したのはいいのだが、やはり着るのにはコツのいるもの、少々ばかり……かなり苦戦していた。
「ほら、真理恵さんにも美冬ちゃんにも教わったし、これでちゃんとできてるでしょ!?」
 それでも、自分ひとりでもできた……ことをアピールする気だったらしい。
 小一時間後出てきた彼女の格好は、なるほど、確かにまあ、見られるものにはなってはいる。が。
「……合わせが逆。左前」
 あちゃー、という感じで緋夕は頭を抱えこんだ。
 ……うん、一番やっちゃなんない基本のミスです。
「え?」
 一からやり直し、としれっと緋夕はいう。
「大体本見てやってるのに何で間違うんだ?」
 呆れたように緋夕がそういったことで、葉月も反撃してくる……と思いきや。
「……オネガイシマス」
 眼をそらしてぽつりと呟く。
 葉月の不器用さと来たら、伊達じゃない。緋夕の運の悪さと比べられるほどだ。
 もう一度やり直す気になれなくて、素直に葉月は緋夕に頼んだ。
「あーその……せめて姿見はどかしてくんない?」
 鏡越しに眼が合って、恥ずかしそうに緋夕が呟いた。少し顔が赤くなっているのも見て取れる。
 トシゴロのオトコノコってのはかわいいものだね、などと妙な思考を振り払うように。
「女物のが似合いそうなのに……」
 ぽそ、と葉月が呟く。
 緋夕はとうの昔に着替え終わっていた。葉月と違って緋夕はだいたい室内着からして着流しを愛用してるくらいだし、着物は着慣れているのだ。
「……いったらほんとうに着させられるから」
 今度は蒼褪めてるな。
 言われたとおりに鏡はどかしたが、付き合いの長さでそれくらいはわかる。
 お願いだからやめてくれ、と懇願する緋夕をしばらくからかいつつも、手は動かしてくれていたのでかなりイイカンジの仕上がりに、さっきの数分の一の時間でたどり着いた。


 しょうゆとソースのこげるにおいがすでに漂ってくるような気分だ。
 自然にかるく、ふわふわとする足取り。
 おまつり、である。
 いつもは採算が取れているのか心配になるローカル単線も、この日だけは乗車率が異常に高くなる。
 ひとごみに酔いそうになり、もう少し早めに出発しなかったことを緋夕は後悔した。
「リーチたちが場所取りしてくれてるみたい」
 携帯をいじくりながら、葉月が言う。
 何かの方針を変えたようで、葉月は結局携帯電話を持つことにしたようだ。まあ、そういうご時世だしいいだろう。
 葉月が携帯の画面を夢中になっていじるその横顔を見ているときに感じてしまう気持ちに、名前をつけて分析する気にはなれなくて、緋夕は積極的にそれを無視することにした。ボタンの操作音がうるさい。
 駅から花火の河原までは徒歩で五分。
「買出ししなくて平気?」
 一応、その道のりの途中にやや大型の総合スーパーマーケットがあるので、買出しには困らない。
「たぶんだいじょぶだと思うけど……。花火とか、買っとく?」
 もちろん、手持ち花火のことである。打ち上げ花火を見たあとにわざわざ手持ち花火もやるのか、と思ったら意外にそんな行動をとっている集団を見かけて、去年は驚いたことを思い出す。
「それはー……別に、あとででもいいだろ。まあ、大体そろってるだろうし、手ぶらでもいいんじゃないか?」
 結局二人は何もかわずに河原の方へ歩き出した。


 ごちゃごちゃとした色彩。右手に屋台、左手に流れる川、そこには沈みかけた夕日が映っていてこんな日でなければなかなか美しい情景かもしれない。しかし、今日はその河原にはレジャーシートを敷いた集団がいくつもある。
 こんな人ごみの中、目的の人物を見つける……のは意外に簡単だった。ものすごく簡単だった。変な髪の色がいる。
「あ、いたいた」
「浴衣だぁ、かわいい」
 無邪気な会話が遠くに聞こえる。何せ。
「……これは」
 利一の髪を思わずいじりながら緋夕がつぶやく。多分、また安い染料を使ったのだろう。しかも微妙に染めむらまである。質感はすでにナイロンを通り越している。マネキンの髪どころか、運動会で使うポンポンのような感じだ。つまりは、さすがにこの季節、利一の髪の色は通常……にはなっていなかったということである。
「ん。通常の三倍?」
 冗談めかして言う。
「ソレ、赤って言うかオレンジ」
 冷たく緋夕は言い放つ。まあ、見慣れたボケとツッコミの構図である。
「うん、まあ、最後の最後に遊びたくてさ。でも、どっちかっていうと緋夕向きだよな」
「は?」
「特技:幽霊が見える」
 がくり、と緋夕は肩を落とす。なんかもう、いちいちツッコむのがめんどくさい。
 葉月たちは自然に女子で固まって話が盛り上がっている。
 部活のみなで来ているわけだが(誰ともなく部室の名からこの集団は物理室員と呼ばれる。しかも、物理部とは関係がない)、全体的に女子のほうが多いのである。
「……これで、全員?」
 しかし……なんだろう、この妙な悪寒は。どうにも、駅を降り立ったときから、いや、もしかしたら家を出るときから嫌な感じがこの祭りの気分を損ねるようにまとわりついて離れないのだ。
「……楽しそうだな」
 そんなところに、不意に、かけられる声。
 ゆっくりと。ゆっくりと、振り返る。
 声は聞き覚えのあるものだった。だって自分にそっくりなものだったからだ。
 緋夕によく似た顔立ちだった。いや、緋夕を、そして『彼』を知らない者がみたらお互いを間違えたかもしれない。
「あ、そーちゃんだ。わ、かわいい」
 葉月が呑気に声を上げる。
 顔立ちは、本当に緋夕とよく似ている。ただし、少しばかり垢抜けた感じが出ている。服装は、性別を考えなければこの場に合うもの。つまり……女物の、浴衣である。ちなみに柄は紺地に朝顔。顔にはメイクまでばっちりしてある。ちょっと口紅の色が濃すぎるのが気になったが今は口を挟まない。
 その手に持っているわたあめの袋の柄がドギツイピンク地に変身魔法少女が二人並んで立っているやつなのが気になったが、あえてたずねるのはやめておいた。そのほかにも、なんだかんだで焼きいかにとうもろこしにヨーヨーに、祭りを楽しんできたことは見受けられるものの数々を身に着けている。
「実家帰ったらいきなりこんな仕打ちを受けたんだが、コレはどういうことか説明してもらおうか?」
 望月蒼天(もちづき・そうう)。緋夕の年子の兄である。蒼天は現在大学生。通えない距離ではないとはいえ、普段は大学の近くのアパートに一人暮らしをしている。夏休みか何かで帰省した、ということだろう。
 この蒼天、緋夕と顔立ちがひどくよく似ている。もっとも、蒼天に言わせれば『緋夕のほうが勝手に似た』のであるが。しかも、顔もよく似ているが、霊感が強いところや、運のなさまで緋夕にそっくりであるあたりはもう兄弟を通り越して精神的双子である。
 この場にいた人間がそのことに驚かなかったのは、望月蒼天がかつて湖上高校の有名人であったからに他ならない。
「そりゃあまあ、マリエさんと美冬ちゃんが来てたから……」
 その前に逃げ出してきたのだ。こんな感じにされるのが嫌で。
「ほう?」
「でも、そーゆー割には祭り満喫してるなぁ……」
 のんきに声を上げるのは利一だ。おかげで緋夕にとっては助け舟である。
「わるいか? この格好ならおっちゃんどもはいくらでもおまけをしてくれるからな」
 やるならやるで完璧主義の蒼天らしい回答。遠まわしに自分の美を主張しても嫌味にならないのが蒼天の嫌味なところである。
「くじ引きの景品にガンプラかゲームソフトなかった?」
 はぐらかす。あるいは本音かもしれない。利一は物事を一風変わった側面から楽しむのが大好きだ。
「ファミコンみたいなやつはあったけど……?」
 利一のペースに引き込まれ、ついつい答えてしまう蒼天。
 悩んだ末に結局利一は素直にここで花火がはじまるのを待つことにしたようだ。しかしいつからわざわざ待っているのだろう。
「ラムネ。のむ?」
 ふと、気づいたように蒼天が緋夕に青いガラス瓶を差し出す。
「誰がお前と間接などするものか。ってか、もうほとんどカラじゃないか」
「あ、そ」
 しかし、他人の飲み食いしているものはえてしておいしそうに見えるものだ。
「……まだ始まるまで時間ありそうだから俺も買ってくる」
 結局、巾着袋を持って緋夕は立ち上がる。ついでに何かかってこよう。
「あ、じゃこれもついでに」
「何?」
 空のビンを渡されれば誰だってそう思う。
「おいしく飲んでリサイクルってやつ。売ってた店だと10円返してくれるみたいだからからやる。チョコバナナの屋台の隣だったかな?」
「わかったわかった」
 しかし蒼天はそこでふと、ひとつ首をかしげるような顔をしてから緋夕に小さく、言う。耳打ちするように。
「大丈夫。……おまえは、おまえだ」

     *****

「あなたは……!」
 思わず、つぶやいて。それが失策だったと今更気づく。
 ……かかわっちゃ、いけない。
 それは、わかっていたはずだったのに。
「こんにちは」
 彼はにっこり、笑い返した。
 慌てて、目をそらす。
「……手紙を、出したはずです」
 彼が『彼』ならきっと届いたはずの。
 関わってはならないと、もし仮に出会うようなことがあっても他人の振りを貫き通してほしいと。そう、書いた手紙を。
「……なんの、こと?」
 にっこり笑って彼は聞き返すが、……それは、自分が自分でなくてもそうとわかるほど、わかりやすい嘘だった。
 思わずひとつ、溜息が漏れる。……かかわっちゃ、いけない。いけない、はずなのに。
 けれど彼は、おや、といったような表情をして、問い掛ける。
「それは?」
 手にもっているのは捨てにいくためのごみと、貴重品を入れた巾着袋と、あとは――
「ラムネ」
 名詞を一言つぶやいて、なつかしい、といったような表情。
「デポジット制、ってやつです。お店に持ってくと10円返してくれるの」
 ……自分の飲んだやつじゃないのだけど。そして、ふっと浮かんだ考えが自然に自分の口から言葉になる。
「だから、壊せない」
 きょと、とした表情を一瞬彼はして見せたが、すぐに真意に気づいたようだ。
「ビー玉無理やり取り出すのに?」
「最近のふたは簡単に外れるのも多いですよ」
 くす、っとふと彼は笑う。 「いくつだっけ?」
 指差されて、自分の年齢を問われたのだと気づく。
「18です。高3。まぁ、学年は、ひとつおくれているけど」
「似ている」
 さすがに意味がわからずいぶかしむ。
「君たちって、こんな感じ」
 ころ、とその瓶を転がしながら、ふっと彼はつぶやいた。
「ラムネの、ビー玉?」
 そう、と彼は小さくつぶやく。ラムネのビー玉。反芻するようにつぶやいて言わんとしていることを何とはなしに悟る。
「『世界』の凹凸に引っかかって、上にも下にもいけない、自分の力でだってろくに動けないでただ転がるだけでおまけに何の価値もないただのガラス玉?」
 だから、わざとそう言ってやったのに。彼は微笑を浮かべた。
「けれど……青く澄んでいて、透明で、郷愁のような美しさがあって……」
 目を細める。まぶしそうに。時間のなせるわざ。
 自分は、そんな顔ができるようになるだろうか? 一瞬だけよぎる不安と確信。
「ビンの中にきれいなまんま閉じ込めておきたい、っていうのと……きれいだから、ビンの中から無理やりでも取り出してしまいたい、っていううのと……両方。たぶん、どっちも、正直な本当の気持ち」
 二律背反(アンビバレント)。
 くだらない、と切り捨てることも、笑って受け入れることも本当はできたのだと思う。けれど、どっちも選べなかった。
 なぜだか知らないけど、うれしいような気持ちと悔しいような気持ちが両方いっぺんにこみ上げてきて、何をいっていいのかわからなくなって。それで、彼の瞳を覗き込んで……口を開いて出てきたのは、そのどちらでもない、第三のコトバ。
『……ありがとう』
「え?」
 さすがに、彼も疑問符を浮かべている。そうだろう。自分だって不思議でならない。
『ありがとう。それと……ごめんね』
 自然に、こぼれる笑みと涙。
「え、ちょ……」
 ますます、彼は困惑している。
「やっとわかった……。今までね、誰かにどうしても、何かを伝えなきゃ、って思ってたんです」
 ずっとずっと。そう思っていた。それが誰で、どんな言葉かもわからなかったというのに。
 コパスティックなんて古いスラングじゃなかったから気づきようもなかっただけ。
「だれかに、なにかを?」
「そう。それがあなたで、今のコトバ。あまりにありふれたコトバで、だから、だけど。あまりにその人を思うあまりのコトバ」
 なんて、美しい言葉だろう。
「……『ありがとう』。俺もうれしかったよ」
 やっと……役割を果たせた。そんな、不思議な満足感。
「おしまいです。やっぱり、かかわっちゃいけないものだと思うから。だって……わりきれないでしょう、たぶん」
 もしかしたら、こちらが怖い、だけなのかもしれないけれど。時間に解決を望むのはあまりに不確定すぎるから。
 言葉を待つのが怖くて、そのままくるりとふり返って歩き出す。歩き出そうとして――ふと思い出した。
「そうだ、折り畳み傘、もって来てます? 帰り、降られますよ」
 出会ったときと同じように。
 ひとつ謎めいたような『アドバイス』を告げてから望月緋夕は日下怜のもとから立ち去った。

     *****

「……それで、なぜこうなるんだ?」
 頭を抱えて、緋夕が呟く。
「収容力の問題、かな」
 葉月が冷静に返す。
 花火の打ち上げが始まったとたんにの突然の雨。
 このくらいの小雨だったら……と油断するほどに本降りになってきて、結局は中止となった。
 折り畳み傘を持ってきたのでかろうじて濡れずにはすんだが。……荷物が。
 ちなみに蒼天は気づいてみたら花火の本番が始まる前にさっさと帰ってしまっていた。
 このまま素直に帰ってみてもいいのだが、できれば風呂に入りたいではないか。
 そうなると、所詮は一介の高校生たちが頼れるのは近所の友人の家。それも、できれば駅から近くて収容力が多くないと。
 というか結局花火が途中で流れたから馬鹿騒ぎしたいだけじゃないのか、という言葉はさすがに口が裂けても言えない。
「うちじゃだめかなぁ」
 なぜか緋夕のほうをみながら葉月が問う。条件に一番かなっている場所が、そこだからだ。
「まあ、大丈夫だとは思うけど……」
 そしてなぜか緋夕が答える。ちゃっかり傘を2本持ってきていたため、相合傘を余儀なくされたとはいえ一応濡れずにはすんでいる。まあ、うち一本が半壊状態だったのは運が良いのか悪いのか。荷物は見事に濡れていた。さほどぬらしたくないほどのものを持ってきていなかったので、素直に風邪を引かない選択肢を選んだというわけだ。


「……かねもちめ」
 最初にそう呟いたのは利一だった。
 お屋敷。
 そう表現するのにふさわしい、和風のつくりの豪邸。
 大きな門構え。玉砂利。玄関までが長くて、その玄関もどこぞの旅館ですかと問いたくなる広々としたもの。旅館との違いは残念ながらこの人数分のスリッパを完備していないことだけだ。
 案内された部屋に入ったら入ったで、今度は椿か何かの垣根に中庭、おまけに池に錦鯉。というかこの部屋自体がこの人数をいっぺんに寝そべらせてなお足のあまる広い部屋。
「……かねもちめ。成金の癖に」
「いや確かに成金っぽいけど……あれ、なんで?」
 再びいやみったらしく呟いてしまった団地っ子の利一に、緋夕がふと疑問を返す。
「洋風の調度品が全然ないもん。でっかいソファーとかソレに合わせたガラスやらマホガニーやらのテーブルとか」
 たとえ和風のつくりでも、ある程度の家柄と実績があればそういったものが集ってくる。わざと取り入れずに和風の暮らしを維持しているには他の調度品に統一性がなくて不自然だし、その場合に何より必要な床の間の隣のでっかい仏壇とご先祖様がたの遺影がない。 
 そいうった趣旨のことをぺらぺらとしゃべって、思わず皆感心した。
 葉月など絶句している。まさか、緋夕より素晴らしい推理をしてくれるなど考えなかった。思わぬ伏兵とか言うやつである。
「……で、ここはあっちゅの家? ひーちゃんの家?」
 そう、何で葉月がここを自分の家というのだ。表札こそなかったが、どうやらここは望月家のようではないか。
「まさかここでありがちのイイナヅケだのなんだの」
 人差し指を立てて興味心身に聞いてくる友人に、
「ただの下宿生です」
 と葉月のそっけない返事。
「……イソウロウ、の間違いじゃないのか?」
 に、更に緋夕の痛い突っ込み。確かに家賃を入れるほどの収入は、一介の高校生がバイトしても難しい。
 要するに、葉月の父親が仕事の都合でここから電車で1時間以上かかるような場所まで引っ越してしまったのである。
 昔は葉月も同居していたがさすがに不都合すぎて、部屋の余っている望月家にご厄介になっているというわけだ。もともとなじみのご近所さんであったわけだし。ちなみに、この家の隣の一軒家(ここと比べれば見劣りするがそれでもそれなりに豪勢だ)が、葉月のもとの家である。
「ってあれ、ユウどこ行くの?」
 これだけの家にふさわしい大きな風呂は残念ながら付いていないそうなので、皆で風呂に入る順番の(なにぶん皆雨に打たれているので暖かい風呂が恋しいのだ。ソレが無理ならせめてふこふこのタオルと濡れていない着替えを)アミダくじを決めようとしていたところで。緋夕がその場を立ち去ろうとしたところを、葉月が指摘する。
「『仮眠室』の風呂借りる。ついでにそこで寝る」
 いうなり、緋夕はすたすたと去ってしまう。一人ちゃっかり濡れてないのに(代わりに自分の荷物はびしょぬれだからとがめるものはいない)、きっちり室内着用の着流しまでいつの間に用意したのか手に持っている。
「『仮眠室』?」
 その名称が可笑しくて、利一が尋ねた。
「離れの小部屋。プレハブだけど」
 電化製品が壊れやすい。リモコンもいじってないのに誤作動する。望月家の特徴のひとつだ。
 自分の家が原因なのか、自分自身が原因なのかは不明だが、学校のコンピュータールームでもフリーズ率がやたら高いことをかんがみるに、主な原因は土地でなく人間のほうだろう。
 が、この離れだけは電波状況がいいのか何なのか知らないが、安定して作動する。
 自然に、大型の、それも日常とはやや切り離して使えるものが移動した。
 つまり、大型テレビ、ステレオとアンプ、DVDプレーヤー、マッサージチェア。
 この辺が主なものだ。ちなみに最近はこのご時世を繁栄してここにパソコンが加わった。
 簡素とはいえバスタブもきちんとついているシャワールームもあるため、ついた名が『仮眠室』である。
 いうなり緋夕は去ってしまった。自分だってそれくらいの良識はちゃんとわきまえている。
 ……夏だというのに、雨のせいか足元が寒い。


「おれもこっちとめてー。シャワー浴びるのあとででもいいからさ」
 早速草履をそろえてシャワーを浴びようとしたところで。予想通りの闖入者がやってくる。
 二組分以上のすぐに使える寝具があって、かつ風呂とトイレのついたここは絶好な場所だ。
「女の子といっしょに泊まるのはさすがにまずいでしょ。だからってひーちゃん無視して別の部屋用意してもらうわけにも行かないし……あ、すごい、簡易ベッドもあるんだ。ホントに『仮眠室』♪」
 はしゃいでいる。そんな利一を見越して、緋夕はいう。
「うん、そこの収納の中に布団も入っているぞ☆」
 にこにこにこ。
「よろこんで使わせてもらいます……」
 しくしくしく。
 無言の圧力に負けて、空いたスペースに早速マットレスを引き出す利一である。
 素直な態度に、なんとなくほだされた。
「いーよ、おまえ先にはいんな。それに俺は床でも平気だ。一応客人だしな」
 それでも、ときちんと厄介になるお家にきちんと差し入れの品を帰りの道がてら選んで持ってきてくれているわけだし。利一にいたっては高校生にはやや高額な共同出資のその一品のほかに更にもう一品自腹を切ってくれている。
 なにより修学旅行でも同室だったので、幼いころそれでずいぶんと苦しめられた葉月よりずっと寝相のいいことも知っている。
「ホント!? ありがとひーちゃん」
 いうなり早速風呂場に向かった利一を見送って。
 やれやれ、といったように溜息をつきながら緋夕は布団を敷きなおすことにした。
 母屋のほうからは時折、女子たちのにぎやかな笑い声が聞こえている。
「あれ、カガミない? カガミ。これさ、実は一日染めのただのスプレーなんだよね。シャンプーで落ちるやつ」
 なっ……。
 いくら夜で雨だったとはいえ気づかなかったことに一瞬不思議に思うが、ああ、気づかないわけだ、そういえば最後に見た利一の地毛はいま金色だ。道理でそれでもしっかり染まるわけだ。
「鏡なら脱衣所の棚空けると出てくる……」
 いまさら前言撤回するのもアレだ。ちゃんと家のどこかに落ちた染色剤がこぼれてないか、というか自分の服や髪に張り付いていないかしっかり確認しておこう。……天候という不可抗力による相合傘の相手は当然ながら利一である。
 シャワーの音を聞きながら、少なくともこの部屋と自分の服の見える範囲は汚れてないことにとりあえずの溜息をついて、不意に修学旅行のとき、泥まみれになってホテルの部屋に帰ってきたときのことを思い出す。
「あれ……」
 ……何故だろう。
 この奇妙な達成感と喪失感は。
「そっか……もう、生きる意味がないんだ」
 役目はもう、終わってしまったんだから。
 じゃあ、どうすればいい?
 ここで死を選ぶにはあまりに唐突で、それを実行するほどの行動力は持ち合わせていないし、だからといって泣き崩れるには自分は少し気丈にできてしまっていたことを緋夕は後悔した。


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