いつか、どこかで、少しずつ思い出して
 そして、ひとつづつ忘れていってくれればそれでいい――
 あったかいものをもらったのは、自分のほうも同じことだから。

     *****

「また、薄くなったかなぁ……」
 高遠利一(たかとおりいち)は、軽く己の前髪の毛先をつまみながらつぶやいた。
「凄いね、リーチの頭ナイロンみたいになってるよ」
 斜め後ろの席、柳平葉月が思わずそのつぶやきに口を出す。
「またあほぅな染めかたしたなぁ」
 その隣、望月緋夕がさらに突っ込む。
 部活が一緒、ということは大きいだろうが、大概この三人はまとまっている。おまけに、今月は偶然にも席がこんなに近い。
「ハーフ&ハーフだよね、これ」
 ワックスで逆立てられた髪の毛の先を軽くつまみつつ、葉月が言う。
 リーチの今の髪の色は、真ん中から2色に分かれ、右側の茶色はまだわかるがもう片方は金色である。
 そんなことをするから、髪が痛むのだ。ずいぶん細くなったし、根元からわずかに除く地毛の色とて薄くなっている。
「ま、あとちょっとしたら真っ黒にするけど、その前に最後に一回くらい遊んどきたいし?」
 やっぱりあほぅだ。
 その発言をすんでで飲み込む。
「これで黒く染めたらまた細くなるなー。ところで、その問題、答えが違うぞ」
 そして、さりげなく、後ろから見えてしまったノートを指差し、緋夕が言う。
 視力はそんないいほうでもないのに、こういうどうでもいいようなところだけは妙によく気づく。
「何故この解答がちがうんだ」
 思わずその身を後ろへひねり、ノートを見せながらリーチは力説する。
「F(x)を微分して切片出して、F'(x)でg(x)と連立して接点出して、この範囲を面積Sとして積分して出す……完璧じゃん」
 おお、なんだかなんとなく懐かしい話題。
「係数がaだろ? 正か負かでグラフの形変わるから場合分けするんだよ。それに、こっちの式は因数分解すりゃ和と差の積だぞ?」
 そしてちょっぴり、いや、かなり頭が痛い感じの話題です。
「和と差の……。あ、ほんとだ。a2−b2になる」
「中学で使ったような式忘れるなよ……」
 そこへさりげなく、葉月が
「好気呼吸の化学反応式」
 と、もらすようにいう。
 はい、これも受験生にとっては基本の暗記項目。
「C6H12O6+6H2O+6O2→12H2O+6CO2+38ATP。じゃあ、クエン酸回路はどこにある?」
 さらり、と、緋夕が答えてさらに問題を出す。
「ミトコンドリア。クリステの方。意外と生物も得意なんだよね、ユウって……」
 さらにそこへ、リーチが継げる。
「ラ変の助動詞」
 緋夕の苦手の古典である。
「えーっと」
 苦手科目はこの程度の事でも、なぜか頭が真っ白になるから不思議。
「『あり、おり、はべり、いまそかり』だね。……ユウ、古典大じょぶ?」
 人数の多い兄弟の末っ子ともなると、私大へ行くのはけっこう勇気のいる作業である。
 おまけに、進学先に今は文系の学科に今興味がわいている。
「いざとなったら数学で稼ぐ。っていうかおまえこそ大丈夫か?」
「正直あまり自信がない……。文型科目だけですむ私立の馬鹿大だってたしかに構いはしないが……」
「問題は金銭面か。で、加法定理は?」
 そして雑談の合間に、問題がはさまれる。受験生の基本の会話パターンだ。 
 sinαcosβ+cosαsinβ=sin(α+β)
 cosαcosβ+sisinβ=cos(α+β)
 tanα+tanβ/1-tanαtanβ=tan(α+β)
「しんころころしんここしっしん、いちひくたんたんたんぷらたん」
 今度は葉月の方が答えた。そういいながら、すらすら、と不用のプリントの裏にそんな式を書いてみせる。
 なぜcosが『ころ』と読めるかは不明だが、そうするとちょうど『どんぐりころころ』のリズムに乗るのである。
 無理やりすぎて、かえって覚える。
 数学は、べつに記号ばかりで暗記できないから苦手なわけではない。それを使いこなせないから苦手なのだ。
「これが関数や式ん中で使いこなせるようになればいいんだけどな」
 見透かされたように、緋夕に忠告される。
「元素記号を順番に」
 ええと、これもちゃんと暗期方法があった。
「"すいへーりーべぼくのふねなあにまがあるしっぷすくらあ"」
 再び微積分との格闘についていたのが一段落したのか、リーチが助け舟を出す。
 そう、それだ。
「えっと、で、だから」
 それで、なにをどう読んでけばそうなるんだったっけ。
「水素(H)、ヘリウム(He)、
 リチウム(Li)、ベリリウム(Be)、ホウ素(B)、炭素(C)、窒素(N)、酸素(O)、フッ素(F)、ネオン(Ne)、
 ナトリウム(Na)、マグネシウム(Mg)、アルミニウム(Al)、ケイ素(Si)、リン(P)、硫黄(S)、クロール(Cl)、アルゴン(Ar)」
 同じく不用のプリントの裏に、周期表どおりの元素記号を記入しながら、すらすら、っと緋夕が答える。
 そこへ、朝のチャイムがかぶり、廊下から担任の教師の近づく気配がする。
 騒がしい朝の教室で、よくもまあそんな物が分かるものだと思うのだが、緋夕にとってはなんとなくわかる。
 ほんとうに『なんとなくわかる』というだけなので、理由を説明するのは難しい。要は、勘が鋭いのだ。と、言うよりも霊感が。
「もうHRかー」
 言いながら、時計を確認する。あいも変わらず、担任教師は良くも悪くも時間に忠実な人だ。
 一応朝は早めにくるよう心がけているので、まあいい朝自習の時間ができた……のだろうか。
「ああ、個人面談近いし、憂鬱………」
 ポツリ、と葉月がもらすように言ったのは誰のためのせりふだったのか。
 ともあれ、受験生の教室ではこんな会話は日常茶番時、もとい茶飯事である。


「また薄くなったんじゃない?」
 放課後の教室、くりくりと、短い己が髪の毛先をいじくる『妹』の姿を見て。
 思わず世羅朔夜はつぶやいた。
 この2人、血縁関係どころか姉妹、つまり双子の癖に、同じクラスになってしまったのである。
 理科選択が偶然一緒だったことが原因なのだが。
 双子の不思議って奴だろうか。
「う〜ん……。やっぱそう見えるかな……」
 朔夜の双子の妹、奈々夜はついこの間髪の色を染め直したばかりだ。
「もう、プール開きってしてるの?」
 しかして、かくいう朔夜のほうは黒髪の長いストレートの髪をたなびかせている。
 うらやましいのを通り越して恨めしい。元地は、同じはずだというのに。
「うん、一応ねー」
 風も温めば水はさらに温む。世羅奈々夜は水泳部員なので、ここのところだいぶ外に出て泳でいる。
 しかし、朔夜のほうは運動系の部活にもとくには所属せずに、外に出るのは体育の授業程度。
 この高校、アルミ製のよいプールがあるというのに、体育の授業では水泳の授業はないのだ。つまり、水泳部がこんなよいものをほぼ独占しているわけである。
「塩素がよくないんだよね、塩素が」
 漂白剤に使う成分を何故わざわざプールの消毒などに使うのだろう。
 ただでさえ染めてて色の抜け始めた髪が、ますます薄い色になってゆく。
 いや色自体はいいのだ、色自体は。ただ。
「あー……。また、枝毛が増える……」
 鬱な気分でつぶやいた。
 その様子を見て、くすくすと朔夜は笑っている。
 ちなみに、すっかり日焼けしてしまった奈々夜と比べて、ずいぶんと白い肌を維持している。
「今日は弦楽の方は練習出られるの?」
 兼部者は意外に多い。奈々夜もその1人で、水泳のほかに、弦楽部を兼部していた。
 これには双子の姉も所属している。
「合唱祭近いし、いちおーね」
 自由発表の部になるが、3年はそこで引退するような集大成の場、こちらも、しっかり練習しておかねば。


 部室の音楽準備室には先客がいた。
 役職で言えば部長と副部長のこのコンビは、方々で見かける名物キャラである。
 要するに、緋夕と葉月の二人組みだった。
「あれ? はやいですねー」
「ああ、今日の午後は二人とも選択無かったから」
 この学校、文理選択がない代わりに、選択式に授業を組み立てて行く必要がある。
 コマ数をどれだけとるかにも択るが、大概午前中を必修授業に、午後を選択授業に当てるので、場合によっては午後に空き時間ができるという寸法である。
「……そういえば、あのあと結局どうなったの?」
 以前、ちょっとした事情でこの双子の新居にお邪魔したことのある二人としては、その後の事が少々気になったのである。恐る恐る、葉月は聞いてみた。
「あぁ、建築士さんの言うには、あそこは立て付けがもともと悪くて、内側から閉めると扉が開かなくなってしまうんですって」
 朔夜がさらり、と解説を入れる。緋夕と葉月はその部屋に一晩閉じ込められてしまったのである。迷惑な話だ。
「何だその黄色の部屋みたいな怪奇現象は」
 ……今はちゃんと直ってますって。
「それに、あのあと、神主さんにお払いもしてもらったしね」
 と、奈々夜が付け加える。
 まあ、妙な噂があったぶん、安かった物件である。
 こういう心理は、日本人として自然にもっているようなものだと思う。
「神主さん?」
 ん? と緋夕は思ったらしい。
「なのかどうかわからないんですけど、その……藍河先生のご紹介で」
 呼び名に戸惑ったようだが、結局なれた名で読んだようだ。
 今でこそすっかりその世界では有名人らしいのだが、『藍河 真理恵』は望月緋夕の母親である。
「真理恵さんの……あー、それ、もしかして若い人?」
「あー、そうね、神主さんにしてはかなり若かったかも。でも、けっこう貫禄もあったわよ」
「だんでぃーなおぢさまー、って感じですよね。後で私たちにも声を掛けていただいて。親切な方でしたよ」
 ああ、やっぱり、という顔を二人がする。
「父親」
 ぽつり、と緋夕がもらすように言う。
『はい?』
 声質の同じ声が見事にハモる。
「だから、それ多分俺の父親」
「安かったでしょ。紹介料も祈祷料も」
 付け加えられた葉月の言葉に、
「いや、相場がわからないんでなんとも……」
 朔夜が微妙に感度のズレた回答をする。
「って、先輩のおとーさん神主さんなの?」
 いっぽう奈々夜は意外にフツーの回答をする。
「いや。まあ、似たようなもんだけど、うち霊感商売やってる家系だから」
「れーかん……」
「しょーばい……」
 あまりにも意外だったのか、見事なタイミングで双子がつぶやく。
「それで霊感強いわけだし? まあ、あの時はなんも見えなかったみたいだけどね」
 幼馴染の葉月には、緋夕のせいで変なものにでくわしたりするのは慣れっこである。といっても、自分の方にはそういう、第六感的なものはついぞ現れたためしがないが。
「まあ、新月に近い夜に出歩いた俺も迂闊だったんだけどな」
 緋夕の力はなぜか月齢に左右される。結局のところはただ単に、人間の生理周期というものが月の満ち欠けと偶然同じサイクルでできてるからということなのだろう。
「後で見に行ったらへんなのうようよしてたからな」
「珍しく銀眼になってたもんね」
 力を使うときや妙なものを見てるとき、はたから見ると右目だけが銀色に光っているように見えるらしい。
 あいにくと、眼光の色が変わることは緋夕にはあまり自覚はない。
「あのうぅ……」
 思わず、ツッコミを入れたくなる。そんな家を紹介したのか、あんたの母親は。
「大丈夫、あのひとけっこう腕利きだから」
「うちの家ももうぱーったりと出てないしな」
 緋夕の家も、似たような事情で安く買い求めた家だ。それにしたって、ずいぶんとリッパなものであると思うが。
 なんだかもう、いろんなものがあまりに超越しすぎているので、とりあえず奈々夜は『気にしないこと』に決めたらしい。
「で、なにしてたわけ? ピアノ弾いて後ろにべったり背後霊つけて」
 素直に、ここに来た時に気になった疑問を提示した。
「背後霊で〜す」
 と、茶化すあたりが葉月らしいといえば葉月らしい。
「ああ、合唱祭の練習だよ」
「ということは……」
 おのずと、配役が見えてきた。
「伴奏だ」
「指揮者で〜す」
 思わず、朔夜がつぶやく。
「またですか」
 確か、去年もそうだった。そのことは当の昔に本人たちが気づいていたらしく、
「2年連続で歌ってないからなー」
「歌わせたら歌わせたでいい声してるんだけどねぇ」
 と、交互に緋夕と葉月がつぶやいた。
「去年は……ああ、太鼓たたいてたね、そいえば。伴奏はやってなかったけど」
 奈々夜が、あれ? と思うが、そういえば、と思いつぶやく。
 葉月に至っては、確か去年は指揮者賞をとっているほどだ。
「おかげでまた服がゴーセーだよ、うちは衣装賞も狙ってるくらいだからあんまネタばれはできないけど」
 と、葉月が付け加える。
「豪勢、ってどの程度ですか?」
 朔夜にきかれて、んー、とひとつ悩み緋夕が
「布地が多い」
 とだけ答えた。
「ごっつーいみねーな」
 思わず辛口に奈々夜が批判するが、
(まあ、場合によってはそれがありがたいといえばありがたくもあるんだけどな……)
 と、ふと緋夕は胸中でつぶやいた。


 そして、雑談にふけっていたさなか、ふいに葉月が気づく。
「あ、いっけな! そうだ、リーチにノート頼まれてたんだ。ちょっと物理室いってきていい?」
 物理室。それは魔の秘境……ではなく。(いや、ある意味あっているかもしれないが)
 要するに、文芸部とイラスト部が日々そこで活動をしている。活動、といったところで締め切り前以外はほとんど遊びふけっているだけだが。
「構わないけど、あっちにいるのか?」
 それでも、受験生というのは忙しいものなのだ。
 何故葉月に頼んだのかが気になったが、考えてみれば、選択がほとんど一緒だから、というそれだけのことだろう。
 確か、必修の理科選択も同じだった。違うのは、しいて言うならこればかりは男女分かれている体育くらいだ。
「たしか今日予備校無いって言ってたから平気」
「けど、あいつがノートかせなんて珍しいな」
「メガネ忘れたんだって」
「あー、それで今日あんなに珍しく教科書凝視してたんだ」
 普段はコンタクトレンズ使いでも、何かの弾みで眼鏡をせねばならないときはある。
 それは大概、まあ、『付けようとしたら落とした』ということなのだが。
「朝コンタクトはめようとしたら流したんだって。で、探しては見たけど時間も無いしあわてて学校来たら眼鏡ケースはあるけど中身は空だったんだってさ」
 不憫な。とてもじゃないが人事とは思えない。
「リーチ先輩ってそんなに目ぇ悪いの?」
 別段有名人というわけではないが、なんだか緋夕と葉月の知り合いというそれだけのコネで此処、音楽準備室に入り浸っていることが多々あるので、弦楽部員の後輩とも利一は顔なじみなのである。
「視力検査のときお姉さんが札もってこっちに歩み寄ってくるくらい、って言ってたね」
「一番上も裸眼で見えないって事!?」
 裸眼で2.0近い視力を持つ奈々夜には、そのことのほうが信じられない。
「むこうは忙しいとかないんですか?」
 念のため、一応朔夜がきいてみる。
「ああ、べつになんもやってない」
「しいて言うなら……そだね、カードゲームしてるけど」
 とてもじゃないが受験生の行動ではありません。
「〆切夏までないもんなー」
 と、何とはなしに緋夕がつぶやく。本を出すとなったら、それはそれでけっこう忙しい部活に見えるのだけど。


 そして、葉月が部屋を去ったのち。
 そのタイミングを待ってました、とばかりに、朔夜は緋夕に問いかけた。
「あの、ちょっと相談なんですけど」
「んー?」
「柳平先輩のお誕生日ってもうすぐですよね」
「ああ、そういえばそうだな」
 名前は『葉月』の癖に五月生まれなのだ。
「なにか、喜ばれそうなものはありませんか?」
 なんとなく、一応参考意見にきいてみたかったのだ。
 一緒にいるから、好みがわかるかもしれない、と思ったのが大きい。
「喜ばれそーなもの? いや、特には……。っていうかよっぽど変なものでない限り、贈り物は喜んでくれるほーだしな、あいつ」
「よっぽど変なもの、って?」
 気になったのか、奈々夜もきいてみる。
 なんだか、双子の前に自分ひとりだけというのはどうにも心細くて、他の部員たちがそろそろきてくれないものか、と思わず緋夕は思ってしまった。
「あー。いや、マニアックなもんもかえって好きだな。あいつの場合。でもまあ、手作りのものなんかけっこうすきなんじゃない? あとは、何年でもとっとけるようなものとか」
 微妙には参考になった。が、とっても微妙な意見である。
「先輩はまだでしたっけ」
 緋夕は誕生日が遅い。確かそうだったな、という程度に朔夜は覚えていたので、一応きいてみる。
「ああ、俺は1月(はや)うまれだから」
「結婚できるまでまだかかるねー」
 と冗談めかして奈々夜がいった言葉に、意外で真面目な返答がかえってくる。
「いや、俺18だから親の許可あればできるけど」
 ん? と思ったらしい。
「計算がひとつ合わないよ」
「いや、俺ダブりだから。しらなかった?」
 そんな奴がいればけっこう有名になるとおもうのだが、そうでもなかったらしい。
「ダブリ、っていうと?」
 ときいた朔夜に
「高校浪人してたから」
 と、的確な答えが返ってくる。
「こーこー……」
「ろーにん……」
 再び、見事なタイミングで朔夜と奈々夜が時間差でつぶやく。
「だからおんなじ声で輪唱するなって」
 双子なので、当然声質が似ているのである。
 ……肉づきの関係でやや異なった声にも聞こえるらしいが。
「それは余計ですッ!!」
 ……ごめん、朔夜ちゃん。
「えっと……。まあ、病気でね、ちょうど中三の冬のころが一番ひどかった時期で学校だってろくにいってなかったし。まあ、っていうかほとんど中学通って無いけど」
 とりあえず、緋夕が解説を入れる。
「よく卒業できたね」
 思わず関心したように奈々夜が言う。それでよく、卒業できたし、この学校に入学できたものだ。
「まあ、湖上入れる程度の学力とぎりぎりの出席日数はあったから。最近は院内学級とかもあるし?」
 湖上(こがみ)高校は、県立とはいえ県内でも屈指の進学校だ。市内だけで言えば、ここがトップレベルになる。
 中学の成績を、あまりよくは覚えていないが、確か5教科で450点とか取っていた気がする。今にして思うと、ずいぶんとすごいことをやってのけていたものだ。
「あれ? でも柳平先輩は?」
 たしか、幼馴染で学年も一緒だったはずではないのか。
 そう聞き及んでいたので、朔夜は思わず聞きかえす。
「さあ、詳しく知らないけど、あいつはここ入る前に別なガッコ行ってたらしいけど」
 実を言うと、緋夕もなぜ幼馴染の葉月が自分とおんなじ学年でこの3年間一緒の高校に通っていたかをよくは知らない。よくは知らないが――事情じたいは、うすうす感づいている。
『別な学校?』
 今度はハモって聞きかえす。
 運動量の関係で、色の付き方こそ違うとはいえ、声も同じで、顔立ちもほぼ同じ二人組みに見つめられるのは妙な気分だ。緋夕の兄には双子もいるが、それでも、そう思ってしまう。
「私立の女子高じゃなかったかな? でも、何かのトラブルがあったみたいなんだよ。それで休学したんだか退学したんだかよくわかんないけど、まあ、そのうちにここ受けてって、そんな感じらしい」
 校風について行けなくて、というのならばわかるが、学業についていけなくって、というのは彼女の場合まずないだろう。
 やや、いやけっこう偏りはあるとはいえ、やはり彼女もこの湖上高校に入れる程度の学力の持ち主だ。
 いじめ、というのも考えづらい。
 明朗快活に振舞ういつもの姿からは、そんな様子など想像もつかない。
 大きな疑問を朔夜も奈々夜もともに抱いたが、ホントは詳しい事情も何とはなしにつかんでいる緋夕は1人、憧憬にふけっていた。
 そっか、もうそんなになる、か……。
 過ぎ去った月日は、きらきらとしていて、すこしだけ、くすぐったい。
 色に例えるなら――そう、青くて透明な月日。

     *****

 もう、十数年昔の話になる気がする。  いや、実際十年以上前の話のはずだが、はっきりした年数はあまりよく覚えていない。
 そういえばそのころは、『妙なもの』が見えているなんて、そんな自覚は無かったのだ。
 大体にしてそういう家系で育ったものだから、ああいうものが『周りのヒトには見えない』という自覚が無かった。
 それでも、そのときに見えたものは、あまりに特殊で、あまりに珍しく、そして――
 あまりに美しかったように思う。今となっては、それが自分のただの目の錯覚だったのか、何故そんなものが見えたのか、確かめるすべはない。


「しゆう?」
 自分の名前を繰り返してくれたことはわかったが、なにか発音がおかしい。
「ひ・ゆ・う」
 不審に思って、思わず繰り返した。ああ、そうだ、そういえば、このころは自分の名前がけっこう珍しい部類に入るなんて、思ってもいなかった。
 単に夕方の時刻に生まれたというだけでつけた適当な名なのに、まったくホントに妙なネーミング・センスをもつ親である。
 まあ、他の兄弟よりはけっこうましな名前だとも思うが。
 相手の方は少し戸惑って、
「ユウ」
 とだけ下を縮めて呼ぶことに決めたらしい。
 むこうもむこうで、自分の名を言ってくれたのだか、どういったのか、うまく聞き取れなかった。
 かろうじて、「あっちゅ」というその部分だけ聞こえたので、仕方なくそう呼んだ。
 否定されなかったのは、それが偶然、皆から呼ばれる愛称だったからだろう。
 はたから見れば、思わず笑みがこぼれるほど愛らしい、子どもたちどうしの会話である。
 男の子のほうの名前は緋夕。女の子のほうの名前は、葉月といった。ハ行の発音が苦手だったこの子は、当然自分の名前もきちんと発音できなかったわけである。
 逆算して考えるに、たしか自分たちがまだ、3、4歳のころだ。当然ながら記憶はおぼろげだが、その、葉月との出会いの部分と、あとはなんとなく、一番上の兄に、よくかわいがってもらってた記憶がある。
 もっとも、それは今も続いている現象だから自然にそう記憶が修正されているだけのことかもしれないが。
 たしか、むこうが引っ越してきたのだったろうか。ちょうど、真向かいの家だったのでほんとにもう、一緒に育ったようなものである。
 それ以前の事は当然自分が生まれる前やそれからまもなくのことなわけだからよく知らないし、伝聞型の話でさえ彼女の家庭事情の話は聞いた事が無い。あえて訊く気にもならなかったし……それは予感に過ぎないが、いちばんイタい部分でもあるだろうという気がしてしまったのだ。
 まあ、自分のうちの家庭事情さえ把握できていないのだから、他人にとやかく口出しする事も無い。
 あの家で育ったのでそれが当然と思っていたが、どうも緋夕の家の家庭事情はありえないくらいに変なのである。
 そうだ、そういえば、そんな幼くてつたない自己紹介ののち、自分が言ってしまった言葉も、考えてみればあの家に生まれ育ったからこそ出た科白だろう。
「きれいだね」
「?」
 言われた方は、何を指しているのかわからずきっと戸惑ったろう。
 誰かの背後にいろんなものが見えることはあるが、それはあまりに特殊だったので、そう声を掛けてしまった。
 残念ながら、今の自分の目ではそれは見えない。そもそも、それが見えたのもあのときの一度きりだったろうか。
 ああ、いや、比較的最近にも一度あったが……まあ、それはまた、別の話だ。
「ありがとう」
 と、葉月もたしか、戸惑いながらそう返答したのだったか。
 それで、そうだ――そう、「なんで?」とたずねるよりも、嬉しいといったのだったろうか。今日が誕生日だからと。なのに、父親も姉も忙しくて居ない、と。
 戸惑った自分は、必死にポケットの中を探して――
「これ、あげる」
 と、それを突き出して彼女の手に握らせて。でも、結局逃げるように家の中へ帰ってしまった。
 今にして思えば、溶けかけのキャラメルが一個だけ、などプレゼントにもならないと思うのだが。
 あの時はちょっと戸惑ってたし、驚いてもいた。あまりに懐かしい感情。でも、それは消えるどころか側に常にいる。
 たぶん、そういうことなんだと思う。
 すごくクサくてイヤだけど……
 それでもそのとき、羽根さえ生えているように見えたのだ。
 そう、天使の翼が、その背に。
 なんだかくすぐったい、そう、色に例えてみるならば、青くて透明な、懐かしい、思い出。

     *****

 誕生日という言葉は、なぜか人をうきうきとさせる。
(まあ、アルコールもニコチンも選挙権も年金もまだ来年解禁だから、そこまで感動的ってわけでもないけど)
 ……もっとも、正直に告白してしまえば、前者ふたつについては日本の法律をきちんと守っていない。
 いまでこそ順守しているが。
 そう、18のときだって、16の時だって、結局そうだった。
 一日がまた始まる、それだけの事。
 女子にしては珍しく、背丈は少々伸びたかもしれないが、特に感動することが、待っているわけでもない。
 兼好法師の随筆を、ふいに思い出してしまう。
「そういえば……」
 おもわず、口に出して思い出す。一番懐かしいはずなのに、なぜか一番よく覚えている。
 一番、嬉しかった誕生日プレゼント。
 トモダチが、できたこと。あるいは、それ以上の存在が。いや、できたというよりつくるというより、それは『なる』もの。
 あれ以来だ。緋夕との腐れ縁が始まったのも。
(あれ、美冬ちゃんの手作りかな)
 セロファンに包まれたキャラメルは、メーカーの名前も何も入っていなくて、ほんの3、4年の人生でさえ今まで食べた中で一番おいしい、と思わしめたほどだ。
 たぶん、あのころから緋夕の『姉』は料理上手だったから、そういうことなのだろう。美冬、というのは彼女の名である。
 それにしても……そうだ、そういえばあのとき、緋夕の目にはいったいなにが見えていたのだろう。
 今にして思えばあれは、あの発言はきっと、『通常、在らざる物』が見えていた証拠だろう。それに対して、感想を述べた。
 何故自分がそんな返答を行ったか、そんな理由付けをしたかは今となってはわからない。
 子どもの思考というのは得てしてそんなものだ。
 『きれい』と形容するからには、そんなにタチの悪いものでもなかったのだろうけど。
 そんなことを考えながら、遅刻寸前のその道程を、葉月はチャリで爆走していた。


「……おはよう」
 かなり、イキの上がった状態で。教室の戸を開けるなり、目の前に見えた顔にげんなりと葉月は挨拶をかける。
 何故教えなかった、という恨みのこもった指線が伝わってくる。
「お、おはよ……」
 これにはその対峙する主であった緋夕も、おもわず冷汗を流すほどだった。
 たしかに、他の事に気を取られ、純粋に伝え忘れた。それは事実、なのだが……
「朝練、今日からだったんだ……」
 ため息をつくように、葉月はもらす。普段なら、こんなギリギリで出たりしない。
 期限時刻が、何かの事情で早くなったとかでない限り。
「指揮者が忘れるなよ……」
 緋夕は苦笑している。
 昨夜も、ピアノの音はけっこう遅くまで聞こえてきていた。もちろん近所迷惑がかからない程度の時間まで、だが。
 こういったあたりはマメな男なのである。
「……悪かったね」
 といって、悪態をついたところで。ふと葉月は教室内を見回す。
「……れ? みんなまだ来てないの?」
 緋夕のことだから、わざと設定時刻を早めに伝えたのだろうか。
 それにしても、この、がらんとした風景はどうしたことだろう。
「えーと、その……」
 緋夕は一瞬言葉に詰まる。冷汗でも流しているように感じる。
「これ」
 一瞬悩んだようにしたのち、後ろ手に持っていたとおぼしき物体を、葉月に突き出す。
「?」
 意味がわからない。
「プレゼント。誕生日だから」
 確かにそれは、小さな箱できれいにラッピングがされている。かなりのセンスだ。
 この器用さには嫉妬さえ覚える。
「……わざわざガッコで渡す事も無いのに」
 事情はわかったので思わず苦笑してしまう。
「いいじゃん、いつ渡したって」
 と、嘯いてみせるが実際のところ、家族やクラスメートに冷やかされるのがいやなのだろうな、というのはすぐにわかった。
 顔が赤い。
 かわいいものだ、とさえ思ってしまう。
「……ありがと」
 いちおう、そう返答はした。
 確かに嬉しい。嬉しい、が、せめてもう少し早く伝えてくれないものだろうか。というか、精神的肉体的負担のない方法を。
 やっと御すことができるようになった呼吸を整えつつ、葉月はそんなことを思った。


 休み時間。こっそり包みを開けてみる。
 苦笑した。
 懐かしい品だった。ただし、それはポケットから取り出したわけでなく、とっても豪勢な品だった。
(ミルクキャラメル……美冬ちゃん直伝だな)
 あのときのものも、たしかそうだった。作った主は、料理の得意な緋夕の『姉』だった気がする。
(どうしてこう、女心見透かしちゃうかなぁ……)
「イヤな奴」
 全くもって、やなヤツである。
 小さく、呟いて。葉月はミルクキャラメルを口に放り込んだ。
 ちょっとなつかしい、甘い味と香りが口の中に広がった。
 そう、幼い日のあの想い出は――
 色に例えるならば、青く澄んだ透明な、あまりにも美しくて懐かしい思い出。


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