葉月
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――女は『穢れ』だ。
その言葉を聴いたのはいつだったろう。
陰陽学を詳しく知っているわけではない。神道についてもだ。
けれど、意外にすんなりあたしはその言葉を受け入れたように思う。
フェミニズムを振りかざすつもりもないけど、だからといって否定する気もない。
あたしにだってそれなりに、女としての誇りくらいある。なのにそれは不思議と納得させられた。
ようは凹凸の問題だ。どちらかがありどちらかが成り立つ。言葉にすればそれだけのことなのだと思う。
雑踏を眺めながらなぜかそんなことを思い出す。
新宿の街は好き。
他のところだって嫌いじゃないけど、この街のすべてを受け入れている感じが好き。
時々、酔いそうになる。私はその『人ごみ』のなかの一人で、所属しているようで、所属してない。団体行動をするよりも独りじゃないことを感じられるのに、部屋の中に篭っているよりもずっとずっと孤独を感じ取れる場所。何かどこか不条理にさえ思える感情。想像できることはすべて存在しうる、そんな感じ。けど……嫌いじゃ、ない。
排気ガスの匂い。少しホコリっぽい空気。歩道橋の上から眺める景色は、特に好きだ。まるで、吸い込まれるような――――
「やめておけ」
驚いた。いきなり腕をつかまれた。
「……飛び降りたりなんかしないよ。街を眺めてただけ」
こういうことをやっていると、時々変な目でみられることはあるけど、ここまでの行動をおこしてくれた人は初めてだ。日本人……だとは思うんだけど、妙に整った顔立ちでよくわからない。よくよく見ると、目の色も黒じゃないように見える。
「そういう風には見えなかったが」
騙し絵を見てるみたいだ。ホンモノの人間の顔じゃなくて、よくできたCGみたい。
アルトの声が、とても断定的にしゃべる。少しだけ、あたしと似た声質。
「雑踏に紛れ込むの。何かに溶けて、自分が消えちゃえそうな感じに近いのかも」
眠ったまま、目がさめなければよかったとさえ思うような、死にたいわけじゃないのにふっと消えてしまいたいと思うようなそんな感じ。絶望的な意味ではなくて、それが変に快く感じるような。……って、やっぱフツーのひとにはわかんないか、そんなの。
「変わった趣味だ」
あきれたようなせりふ。
あ、関西の人だ。イントネーションが少しちがう。わらべうたのメロディーにも似たどこか心地いい旋律。
「あなたもじゅーぶんかわってると思うけど。別に変に正義感強くておせっかい焼きって感じもしないし」
はたから見れば、ジサツミスイを止めようとしたわけだし。ただ、その目が、不思議な色に光る気がした目が何もかも見透かされてるような気がして、またじっと見つめ返される前に立て続けに質問をした。
「なまえは? いや、別に言いたくなかったら言わなくてもいいんだけどさ、ほら、名前無いと呼びづらいでしょ?」
別に問われれば自分の名くらい名乗るけど、わざわざあけさらしはしない。あたしの……ずるさだ。
「ヨウコ」
彼女はひとつ悩むようなそぶりをしてからそう告げた。
「ヨーコさんね」
「ヨウコ」
なおされる。のばす言い方はお気に召さなかったようだ。
「お前は?」
ひとつ、悩んだ。
「んー…まあ、ホントは葉月って言う名前」
知らない人間に、本名は名乗らない。今の家に厄介になってからの決まりごとのひとつ。まあ、そういう商売やってる家系にはアレ何だろう。よくある、「名前には力が宿る云々」っていう。
あたしに人を見抜く目はないが、なんとなくこの人になら告げてもいい気がして、この人になら別に何かをされてもいいやとさえどこかで思って、自分の名を名乗った。嫌いな名前。
「葉月、っていっても、5月生まれなんだけどね」
元をただせば親の勘違いでつけた名だ。大ッ嫌いだった。だから、うんとちっちゃいころわざといえないフリをした。
――そう、本当に、嫌いだった。あいつに呼ばれるまでは。
「幼馴染がいたんだ」
何でこんな会話を見ず知らずに人に切り出してんだろう。そうどこかで思ったけど、なぜかこれがとても自然な流れのような気がして、あたしはかまわず続けた。
「あいつに呼ばれるまで嫌いな名前だった。ついでに言うなら、この見た目もそれまでずっと嫌いだった」
父親とも、血のつながってない姉とも似てない外見。母親似の顔立ち、髪の色。あたしが……物心着く前に、とうの昔にこの世界から消えてしまった人物。
「『いた』?」
疑問形で聞き返されて何のことだろう、と思ったけどそのひとつ前に行ったあたしの言葉に引っかかったのだ、と気づく。そう、あたしは確かに過去形で言った。
「ん、まだ生きてるけど。ってかフツーにクラスメートなんだけど。……もしかしたら、そう、なってたかもしれない」
あのころのことは、あんまり思い出したくない。再会の思い出だけが唯一の取っ掛かりのようになって、かろうじて耐えていられる。
自分自身の犯した過ちから、目を背けちゃいけない。それは、わかっているのに。
「あたしは……ふさわしくないから」
小さく、呟く。たぶん自分は、ふさわしくない。好意を抱いているのも、抱かれているのもたぶん真実。だからたぶん、今でもあたしは逃げている。
「ふうん?」
二つの瞳に、見つめ返される。陽光を受けて、一瞬それが銀色に輝いて見えた。……そうだ、この瞳は、あいつに似ているんだ。
「病気で倒れたのが確か小学生の高学年の頃かな。中学になるとほとんど通ってこなくなって、あたしのうちはあたしのうちで、その頃はもうどろどろしててね。最終的には15も歳の離れた半分しか血のつながってない妹と8つも年上の血縁のない姉ができた」
髪を……まだ長くのばしていた頃の話だ。母親とおなじ色の髪。
「ただでさえ意識するとかえってはなれちゃう年頃なのに、避けるようになってたなぁ」
何かをずっと恐れていた気がする。たぶん、今も恐れている。でも、あの時は、もっとずっと近くてはっきりした形でそれがあった。
「……怖かった、のかな。ただ」
ただ怖かった。
父親の都合で引っ越して、引越し先も知らせなかった。住んでた町に戻るのは……怖かった。
お見舞いどころかはがきのひとつ送ることさえしていない。もっともあいつもあいつで、転院してたことも難しい手術を受けることもちっとも知らせなかったから――まあ、お互い様といえば意お互い様だ。けれど……家にもいたくなかった。そこは自分の帰る場所じゃなかった。特段、何かをされたわけでもなかったけど息苦しかった。だから……
無言の時間が、少し長く続いて、向こうから切り出した。
「父親と……反発した?」
こくり、と無言でうなずく。
「………男性関係が、乱れていた」
さすがにこれは言うのをためらったようだ。もう少しオブラートにくるんだ言い方とか、と思ったところでなぜか、でもオブラートってでも透明じゃん、結局丸見えじゃんとかくだらないことを思ってしまった。
「そう。夜遊びの類は、たぶんクスリ以外は大抵やった」
最初に少しにやけたのは、だから自虐でなくてたぶんそのせい。どうあがいたところで、自分の過去は変わらない。
「すごいね。一回占い師の先生ってのにみてもらったけど、あの感じに似てる」
――そして訪れた、運命的とさえ思えた再会。
吹っ切れた、と思っていたのだけれど。数ヵ月後に心の無理が体に現れた。そのときに、お世話になった人のひとりだ。
「似たようなことを、やっていなかったわけではない」
あいまいな表現。とても日本人的な表現。
「じゃあ、なんか、まあそっち系の人だ。もしかして人間じゃなかったりして。だとしたら結構すごいところの人? だ、あたしでも話せたくらいだから」
代名詞ばかりの言葉には、さすがに向こうも戸惑ったらしい。
「ああ、その幼馴染ね、変な力とかもってて。霊感、って言うの? そういうやつ。あたしには全然ないんだけどさ、長くいっしょにいたから、なんとなく、そういう系統の力もってるのかな、って人はあたしにもなんとかわかるんだよね」
……ま、外れることも多いんだけど。
「そうか」
不思議な目。どこか恐ろしくさえあるのに、すべて見透かされるような気がするのに。なぜか視線がはずせない。
「ありがとう、ごめんね、変な話しちゃって」
変な感じだ、見ず知らずの人に、こんなことを話して。けれど不思議とふっと肩の荷が下りたような気がする。……たぶん、自分は大丈夫。そう、思える。
「かまわない。興味深かった。お前は、そう思っていたんだな。あのころのことを、あのときのことを」
笑っている……ようにも見える。悲しんでいる……ようにも見える。
あれ? なぜだろう、なぜか視界がぼやけるような、何かが遠ざかっていくような。
「うん……また会えるかな?」
あ、そうか、お別れだ。
「わたしはここにいるとは限らない」
「まぁ、そりゃ確かにそうだ。あたしだって予備校の帰りにふらっとこの辺ぶらついてみただけだったし」
あれ、何で自分はこんなところに来たんだっけ。混乱しだす記憶と思考。
「だが、望むのならいつかは会えるだろうし、会わずに済むのならたぶんお前にとってはそのほうが幸せだ」
「かもね。……あれ、何さんだったっけ?」
名前、聞いた気がしたんだけど。えっと、あたしは……
「……なんだ、もう忘れたのか、『葉月』?」
にやりと笑う唇。たぶん、そのほう、が、幸せ。どこか遠くから聞こえるような声。なんていってるんだっけ。
ああ、とにかく、そろそろ帰らなきゃ。
「それ、じゃ……」
あれ、あたし、何の話を、誰としてたんだっけ。何で、こんなとこにいたんだっけ。
そうだよ、今日の課題の論文、早く仕上げないと。
――うーん、狐につままれるって、こういうこと、いうのかなぁ。
*****
静かに、『彼女』はその背を見送った。たしかに、何かを思わせるような背中ではあるけれど。
「葉月か。……マリエの若いころに似ている」
しかし……『天使』はやりすぎじゃないか?
「だが、まぁいい子じゃないか、緋夕」
妖孤はふっとつぶやいた。