疲れた。
 総てに、此の世の総てに疲れた。
 虚脱感と。
 空虚感と。
 感情など、此の自分の内には存在せぬと想って居たが。
 いや、実際存在しないのだろう。
 其れでも涙を流す術は、やはりよく理解出来ていない。
 哀しみは判らず。
 在るのは、奇妙な恍惚感。
 そして、其れに混ざった嫌悪感。
 目が霞む。
 足取りが、覚束ない……と謂うよりは立って歩く事も侭ならない。
 空気以外、何も口にしていない。
 そんな日が幾日続いたのだろう。
 気持ち悪い。訳も無く。どうしようもなく。
 胃液すら、吐き尽くしてしまった。
 唯、じっと座って、人の流れの行き交う音を聞くでも無く聞いて居た。
 こうして自分はじっと死を迎えるのだと思えば。
 湧き起って来る想いは寧ろ当然のもので。
 けれど。
「お前……行き倒れか? 喰いもん、無いのか?」
 何とまあ奇特な事だろう。
 声を掛ける、いたわりの言葉を。此の自分へと。
 少年。
 何処か、あどけなさの残る。
 其の、瞳は。
 黒より深い漆黒で、吸い込まれそうな漆黒で。
 此の闇色に落ちてしまえたら。
 此の深淵へと、沈めたのなら。
 キョウは、其れでも感情を表現する術を知らない抑揚の無い声で。
「私には行くべき場所は無く何かを為す気力も無くそして同時に自分を強く咎めてくれる死を望んで居る」  謂う。
 あの抑揚の無い独特の声で。
 まるで方法を知らぬとでも謂いたい様に一つも息継ぎを入れず。
 其の少年は、よく判らない、と謂った様な表情を一旦見せ、しかし。
「死にたくなる気持ちは判らなく無い。けど、死んで逃げるのって凄いずるいと俺想う」
 と、何か濃く出し過ぎた茶を啜った時の様な顔で謂った。
 何と、まあ。
 しかし、確かに其の通りだろうとも。そう謂った風に想う心もまだ残って居た。
 ふと、思い出されるのはかの有名な文句。なるほど、此の場にはふさわしい。
「汝は彼の地より来たれりか」
 ぽそり、と呟く。
「え?」
 訝しげに眉を顰めた其の少年に対しキョウは

(なれ)は彼の地より来たれり
 我は(なんじ)が定めなり
 ()は我の使者であり
 ()は滅を意味せり
 御座(みざ)いと(くら)きに在りて
 (やいば)夜を表わせし(とき)
 ()を朱に焼かば
 (へみ)大いなる
 時空(そら)より来たる
 ()の大いなりし誓約為れば
 ()の無からましかば」

 今度は朗々と歌い上げる様に、謂った。
 少年の頭上に見えるものは。
 今は、疑問符から感嘆符に変わった様にも想えた。
「言い伝えだ。此の『剣』を持つ者ならば必ず知って居る。今みたいに暗唱出来る程な」
 黒金の剣の柄を持ってキョウは少年に指し示した。
「へぇ……。なあ! 其れってどういうイミなんだ!?」
 あどけなさの残る、好奇心に満ち溢れた、少年特有の可愛らしげな瞳。
 此の眼に見詰められながら何かを頼まれて『否』、と謂える者はそう多くは在るまい。
「学者どもは苦労して古文書を開いて居るらしいが」
 抑揚の、とことん無い声。
「どうしても意味を知りたいのならそうだな――」
 だが。
 其処から先、再び語調が変わる。
 吟遊詩人も、くだを巻くほどに朗々と。

「貴方は、其の地からやって来たのですね。
 私は貴方の『運命』です。
 其れは私の僕であり
 此れは『破滅』を意味します
 御座(おんざ)がとても暗くに在って(覇者の統治は乱れて)
 刃は夜を示す時
 大きな蛇が大きな時空を渡ってやってきます。
 此れはとても重大な約束事だから
 其れが無かったのなら……」

 総て謂い終った処で。
「とまあ語尾を敢えて敬語調にするならこんな処か」
 吐息を、一つ。
「何か……」
 きょとん、とした瞳で。
「どうした?」
「さっぱりイミが判んないんだけど」
 少年は訊ねた。
 ふ、と静かな笑みの如き吐息を漏らし。
「当たり前だ。学者どもは今も其の意味を判っていないと謂った筈だ」
 しかし、黒金の剣を知らぬという事はつまり。
「破壊術士も知らぬのか」
 奇特な子だ。
「破戒、術士?」
「違う。破壊術士だ」
 呪術士よりも忌み嫌われる、魔術士の一種。
 短絡に。キョウが解説を加える。
「なんで?」
 何の事を訊ねられたか判らなかったが。
 此の分だと魔術の事すら理解してない様な子供である。
 つまり、其の事を訊ねられたのだ。
 さて、此れは解説が面倒くさい。逐一説明するよりは――
「何でも出来るからだ」
「?」
「破壊術士のする事に不可能は無い」
 一般の、認識では。
 彼らは、邪悪なる者と盟約を結んで居るから。
 一般の、間違った認識では。
「へぇー、凄いんだな!」
 此の反応は。意外だったかもしれない。
 くすりと笑って。
 そしてそんな事をした自分に驚愕する。
 いつの間に、自分はこんなに人間らしくなってしまったのだろう。
「其れはあくまで一般の間違った認識」
 言霊使いは同時に破壊術士ですら在るのに。
 つと。其の事を思い出して。
 キョウはかの偉人の名を呟いた。
「ラレビル・フォ・メアード」
「ら…なんだって? 誰かの名か?」
 意外だったのは。少年の反応。
「ラレビル・フォ・メアードを知らぬ」
 流石のキョウも此れは怪訝そうな表情をしたらしい。
 あくまで、表情の読み取れない其の容姿からは『らしい』としか謂え無いが。
 さて。難しい所だ。そもそも知らぬ者等居ない名だ。
 彼女の残した功績は大きい。
 だが、此処ではそんな事をどうこう謂うより――
「言霊使いを知っておるか」
 疑問を掛ける場合、どんな言語にせよ語尾をあげるというイントネーションがおきるものなのだが、何せキョウはそんな『技術』を知らない。
 少年は其れが疑問だと暫く気付けなかった。
「……言霊、使い?」
 聞いた事も無い様だ。其の様な単語。
「そうだ。知らぬか」
 こくり、と首を縦に振る。
 さて、難しい所だ。
「言霊使いとは総ての術を操れる術士の事だ」
 お粗末な説明である。字引の説明より。
「と謂う事は言霊使いとは貴重な存在だ」
「うん」
「彼女は其れだった。此の世で最初の」
「……其れだけじゃないだろう?」
 ほう。中々読みの出来るものやも知れぬ。此の少年。
「では協会は知っておるか」
 協会、といって通常指されるのは魔術士協会の事、だが――
「なんだ、其れ?」
 さて善流の国にはそんなものが在ったかどうか。
「術士どのもの連合の様なものだ。其処の長に最初に治まったのが彼女だ」
 旧形態から新形態へ。
 長老会の体制派を崩して、彼女は改革を成し遂げた。
 歴史書を開けば其の様な事等、事細やかに載って居る。
 いや、寧ろ歴史小説か。
「其の時彼女は齢十五」
 だからこそ、語り継がれる歴史でも在る。
 本当にそんな事が唯の少女に出来たのか否かと。
「ふぅん、すげー人だったんだなぁ。其れで、そいつは其の後どうしたの?」
「種々の改革を成し遂げた」
「術士に有利な世の中に?」
 矢張り勘が鋭い。あるいは、教えるものさえいればよい術士になるやも知れぬ。
 術士に必要なのは、素質と天賦の才、そして何より良く働く頭脳である。
「そうだ」
「へぇー。じゃぁ、其の後も色々在ったんだろうな」
 祭上げられて称えられて。
 ――けれど違う。
「いいや」
「?」
「其処から先は続きは無い」
「え…?」
 其れはつまり。
「彼女は即位した其の年の秋に死んでおる」
(聞いちゃいけない事、聞いたな――)
 キョウには意外だった。
「四百年以上前の話だ」
 そんな話に、そんな表情を浮かべた少年が。
 其れとも――
(よもや、私もまたそんな顔をしたのか?)
 だとしたら意外だ。そして心外だ。
「一つだけ忠告しておくが」
「ん?」
「私は人間ですら無いぞ」
 唯の傀儡。
 運命と謂う見えない糸で操られて居る唯の傀儡――
 ふ、と一つ、キョウは吐息を漏らした。なるほど、此れが『溜息』というやつなのかもしれない。
 何故此の少年とこんな問答を繰り返す気になったかもわからない。
 唯其の瞳の深い色が、セツランと同じだったから。
 馬鹿馬鹿しい話だ。此の国の民は髪も瞳も皆黒い。
 唯其の澄んだ色が如何しても愛しかっただけ。
「セツラン――」
 どうすればいい? 彼女無しで、一体自分に何が出来る?
 其れでも……
「『エルタン・ドゥナ・セーヴル』」
 彼の、中部の森の守人。
 其れでよいのか、最高の先見、最も高位のエルフ――
「双天蠍の地か」
 向かおう。
 其れでも向かうしか自分に手立ては無い。
 すっくと立ち上がろうとして。
 途端、其れはそうだ、もう此の何日も空気以外口にしていないのだから――よろける。
 六尺の背がバランスを崩したのだからたまらない。
 少年も、巻き添えを喰った。
「すぐ其処だしさ、うちこいよ……って謂ってもあの橋の下だけどな。カビの生えかけた飯粒と泥水くらいなら口にさせてやる」
 脆い身体だ。酷く不便だ、唯の人形の癖に、こう謂う所だけは人間の形質を受け継いで居て――
「すまぬな」
 少年に肩を借り。呟いて。
「ありがとう、って謂うんだぜ、此の場合」
 流石に其の言葉を謂うのには一瞬ためらい。
「おぬし、名は」
 と問う事で有耶無耶にする。
「なまえか? 俺は――」
 一瞬。ハっとした。
「どうした?」
 少年が、問い掛ける。
(下らぬ)
 セツランと、聴こえた気がした。あるいは、ディースとも。
 使っておらぬので、頭も体もガタが来て居たに過ぎぬのだろう。


 しかし。少年に案内された先で見かけたものは。何処までも意外で、そして必然的なもの……
 まるで、運命と謂う名の星宿が導きしが如くに。
「セツラン」
 想わず其の名を呟いた。
 そう、彼女が。彼女が、其処に居たのだ。
 彼女に出会えた。自分にはもう出会う資格など無いと想って居たのに。
 胸が詰まる、妙な感じ。此れの名はなんと謂う? そして人はこんな時どんな行動を取る?
 判らない。判らないという事は其の様な感情、持つ資格も無い。
「知り合いか?」
 怪訝そうに、少年はキョウに訊ねる。
「ああ」
「そう、か……」
 しかし少年は俯いて眼を伏せる。何か、問題でも在るというのか。
「何も語ろうとしない」
 うめく様な、搾り出す様な言葉。キョウは黙って居る。
「語れない、らしい」
 言葉の意味は判っても、取るべき行動が判らない。
「自分の名も、判らないそうだ」
 矢張り、キョウは黙って居た。
 記憶喪失。そう呼ばれるものだ。
 あの崖から落ちた時、幸いにして木々に引っかかったものの、頭を強く打ったのかもしれない。
 彼女が其の時の状況を語れぬ以上、総ては『らしい』でしか無い。
 オウカが其の後どうなったかもわからない。
 其れでも。其れでも彼女が傍に居てくれるだけでよい。
 あるいは総て忘れて居たままのほうが、よほど良いやも知れぬのだし……
 暫く、此処に厄介になろうか。
 自分はさほどのものを口にせずとも生命を繋いでゆく事は出来るし、喰い扶持の負担にはならなかろう。
「すまぬが」
 キョウが言葉を紡ごうとした所で、少年自身が橋の下に住まうものたちに声を掛ける。
 「おーい、新入り一人追加ー!! あっちの大通りで行き倒れてた奴さ」
 年齢層はまちまちだが、皆橋の下くらいしか雨露を凌げる場所の無い様なものばかりが集まって居ると見えた。
「また拾ってきたのかよー!? 名前は? 其れともまた名無しか?」
 と、見た目では齢三十を越してそうなものが冗談交じりに少年に問いかける。歳の壁など、最下層のものにとってはさほど関係も無い。
 話しかけるのならば近付いて話せばよい気もしたが、確かに此れなら全員に聞こえるだろう。
「えと、あんた名前は」
 少年が、覗き込む様に問い掛ける。
「キョウという」
 さて、自分の名は此れであって居ただろうか。暫し使う機会が無かったので、よく覚えておらぬ。
「キョウだってさー!!」
 ふ、と一つ、キョウは吐息を漏らした。なるほど、此れが『溜息』というやつなのかもしれない。

      ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 そして。
 其の日は唐突に訪れた。
 其の日、二人は薬草摘みに出かけて居た。まるで、あの日の様に。


「余り動き回るといかんせん腹が減るので本当はじっとして居るのが一番良いのだが、」
 と、此の『集落』の中の最年長らしい老人はいった。別に、長という訳では無いのだろうがこういう役目は老人が行うのが一番良い。
「さりとて、何もせぬという訳にもいかないのが実情」
 そうも付け加えた。
 だからこそ。
「あんたはあんたのできる事をやって、皆に返してやってくれ……」
 なるほど、だからこそ食事を皆で分け合う事が出来るのだろう。此のもの達なりの法、という訳か。


 結局、今日はセツランと共に薬草取りを行う事を選んだ。
 不思議なもので、己が誰かが判らぬともどの草がどんな傷に効くかは覚えて居るものらしい。
 そして。
 其の日は唐突に訪れた。
 其の日、二人は薬草摘みに出かけて居た。まるで、あの日の様に。


「セツラン」
 怪訝そうに……といっても、そういう風な場合どういう言葉を掛けてよいか知らぬので傍から見れば落ち着き払って居る様に見えたのだろうが。
 何か、ただならぬ雰囲気を感じて。キョウはセツランの名を呼んだ。其れまでは何か別の適当な名が付いて居た様だが、キョウがやってきた日からセツランの名は再びセツランになった。
「藪萱草(やぶかんそう)……?」
 ふと、手に持った草の束を見詰め。彼女は呟いた。手に持った草の名は、確かに其れだった。
 まるで、自分はなぜ此処に居るのか判らない、とでもいった様に。
 暫しして、先程自分の名が呼ばれた事に気付いた様だ。
 そして、其れが覚えの在るものの声であった事にも。
「キョウ……!!」
 振り向き。其の姿を確認して想わず叫ぶ。と同時に、あの時の事も思い出す。
 血の色をした瞳と、海の色をした髪を持つもの。すなわち能力授受。そして、聞き覚えの在る名……
「セツラン」
 もう一度。キョウは彼女の名を呟いた。
「思い出したのか」
 言葉が疑問形になっていない。抑揚が無いので気付けない。しかし、其れが問い掛けである事はセツランにはすぐ判った。
「思い出す……?」
 今度はセツランの方が訊ねた。
 そして。
 キョウは、其の後の経緯を軽く語った。
 あの、抑揚の無い独特の声で。


「不思議」
 キョウが語り終えた時、セツランは想わずそう謂った。
 何故こんなふとした事でこんなにも唐突に思い出してしまったのだろう、とも。彼女はそう付け加えた。
 キョウは口を開きかけて、結局辞めた。
 其れは――彼女が演じて居ただけだから。
 無意識の内に、自分でない自分を、自分を知らない自分を演じて居ただけだから。
 キョウも……あるいはもしかしたらセツランも。其の事を、感じ取って居た。
 しかし……
(あのままの方がもしや幸せだったやも知れぬ)
 意図して忘れて居たとは謂え。何もかも、判らなかった方が。
(けれど、運命は其れを許してくれない)
 そう、此の先に待って居るものは――
 いや、止そう。先の事は先の事。今は、其れで良い。
「出逢うは運命。別るるも運命。では再び出逢うもまた運命の為せる技では無いか?」
 愛おしさ。狂おしいまでの、愛おしさ。
 其れを手に入れた、其の対象を再び取り戻せた――喜び。
 其れを表現する方法は、よく判らなかったが。
 少しばかり苦しめの微笑を、口元に浮かべて。
 キョウは、セツランに向かってそう謂った。


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