第二章『離別』
「向かいなさい……双天蠍の地へ」
往来は、やや激しさを収まり掛けて来た所であった。
女性の声……だろう、此れは明らかに。
顔も見せない――と、此れは自分がどうこう謂えた立場では無いのだが――其の声は。
しかし同時に自分を導く為のものであった。
全く……何処までも彼女らしいのだろう。
そうやって、いつも自分を苦しめる。
……此の世を離れた、其の後ですら。
「だが――確かに選択肢としては其れが正しいのでしょうね」
畏まった言葉遣いは少々嫌いだが。
敢えて敬語を使うのは、其れは偏に彼女に対する在る種の憧憬からだった。
付き纏ってくるのだろう。
彼女の、己の母の影は。
常に、自分に。
双天蠍の地。即ち。
「エシル・ヌス……」
何時までこんな目にあい続ければいい?
何時までこんなものに振り回されつづければいい?
いつまで、自分は、自分で居ても……
「下らぬ問いだ」
吐き棄てる様にって。
再び歩みだす。
進めばいい。取敢えず今は、『彼女』の言葉通り進みつづければいい。
其れ以外に選択肢など無いのだから、始めから運命以外に選択肢など無いのだから、唯々只々只管に、ひたすらに、果ての地へ、東の果てへ――
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「お前は――」
路を阻める其の人影に。
想わず、キョウは声をあげた。
「キョウ……だったかしら。久しぶりね、お世話になったわ」
――冷たい瞳!
何処までも、何処までも、冷徹に此の世を憎みつづけた瞳!
そう、『これ』だ。
感じた奇妙な違和感は。
毒々しいまでに赤い唇が。
呪詛ですら在る言葉を紡ぎ出す。
つと。己の脇を掠める、不可視の風。
風、と謂う表現は正しく無い。
唯、要するに物理的な力を帯びた在る種の塊だ。
総べてを滅ぼす威力を持った、在る種の波だ。
此の力。オウカにこんな力など在ったか?
そんなものが在れば、とうの昔に自分なら判る。
そして。此の力を操る者に、幽かな心当たりが在る。
其れは、厭な予感だった。
此れは。此の力は。
「北で待って居るわ」
毒々しいまでに赤い唇が。
呪詛ですら在る言葉を紡ぎ出す。
呟いて。
オウカは霧の様に。風に解けて消えた。
此れは。此の力は。
こんな事が出来るとなれば。
……此れは、『能力授受』!
何故か幻影を掴もうと、異様に白い己の手をつと差し出して。
しかし足までは踏み込めない。
体が痛い。
胸に何かがのしかかる。
其の一歩が踏み出せない。
「此れ以上私を苦しめ賜うな。死者よ」
全身が痛くてたまらない。
つとした弾みに引き裂かれそうになる。
其の一歩が踏み出せない。
其れは其れで、其れでも構わない。
唯、気がかりなのは――
「『運命』か」
人の心など自分には無いが。
其の皮肉さを、残酷さを、感じずに入られなかった。
厭な、予感がする。
――セツランに、また会いたい!
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
信じる事。
其れに意義なんて在るだろうか。
無い。
総ては定めの為すが侭――
「けれどね、其の運命だって…」
所詮は、其れすら作られたモノ。
後先も考えずに、自分は何をして居るのだろう。
(彼の迷える羊は荒野を渡り)
此の国のものでは無い。しかし、気に入りの詩だった。
(緑の茂る泉に背き)
此れを運命などという言葉で片付けなどしては――
「キョウ、早くいらっしゃいな」
つと空を見上げ。
此れだけは常に何時でも何処でも、何処へでも繋がって居る、空を見上げ。
つと、セツランは呟いた。
「まあ尤もあたしの取り返したい時空(そら)は――」
其処には何故か不思議な美しさ艶かしさすら在った。
『過去』を、持つものだけが出しうる。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「キョウ!」
咄嗟に、声を掛けられ。
つと振り向く。
(すれすれの――合格だな)
こんな事では自分は所詮『彼女』には――
「セツラン」
見つけた。やっと。再び、会えた。
会いたかった、などとは口にしないし、出来る訳も無い。
此の自分に人の心など――
「セツラン」
恐る恐る近付いて。
矢張り恐る恐る、其れまで触れてしまえば壊れてしまうのでは無いかと不安でたまらなかった此の愛おしい瑠璃細工を抱き締める。
柔らかくて、温かかった。
小さな体の小さな息遣いが、なおも愛しくて――
「キョウ…?」
セツランすら其の雫の意味に気付かなかった。
此の季節の移ろいやすい空が再び不機嫌を起こしたのかと想った位で。
けれど――
「セツラン……」
手放したく無い。
初めて想った、人間らしい感情だった。
「キョウ」
だから、せめて。笑って、見上げて、返してやろう――
其の視線の先に。
彼女の、人影は在った。
「貴方は…!」
くす、と。
彼女の毒々しいまでに紅い唇は、口の端を吊り上げて笑みを形作った。
「久しぶりね。と謂ってもキョウとはついさっき会ったばっかりだけど……でも此の挨拶、必要無いかしら? だって……」
鋭く。
其の紅い唇にあわせた様に、眼光は氷雨の様に鋭く。
「もう、私はあなたたちとは会う事も無いでしょうから」
呪詛である言葉と示し合わせた様に――
「な……」
つい先刻。キョウに当てつけたのと同じ『力』。
其の力の塊が、二人の間を引き裂く様にすり抜けた。
セツランの扱う白魔術とは最も遠い位置に在る術。
其の清らな聖なる力とは尤も対極の位置に在る術――
「能力授受」
的確に短絡に。事の要旨を述べたキョウの其の言葉に。セツランの、動きが止まる。
「なん…ですって?」
――禁断の邪法じゃないか! 其れは!
「あら、よくご存知ね」
謂うが早いか。
オウカが其れまで纏められて居た髪を下ろす。
髪紐に、呪魂でも入れておいたのだろう。
其の途端――
漆黒だった其の髪が在り得ない色へと変化する。
蒼色の髪は、水と謂う罪の象徴。
赤色の瞳は、炎と謂う血の象徴。
そして。
其の、額には……縦に見開かれた、第三の瞳。――つまり、邪眼。
「誰を殺した」
簡素に。キョウが謂う。
「なんの事?」
オウカが、問い返す。此れは本当に其の意を捕らえられなかっただけなのだが。
「そらっとぼけないで! 能力授受がどんなものか、貴方は受けた以上判って居る筈! あれは……あの、禁断の呪術は……」
「生命力や個人の記憶すら含めた能力総てを此れと見込んだものに託す業だ」
微妙に。キョウには何故二人が分かり合えていないのかが判ったらしい。
「そうよ、其れと引き換えに――」
泣きじゃくる様にすらして。セツランが言葉を紡ぐ。
「其れと引き換えに能力を授けたものは命を失い受けたものは死ぬ其の時まで其の身に苦痛を味わう」
――また笑ったかもしれない。こんな事を解説するだけだったのに。
全く以て自分と謂うのはよく判らない存在である。
「なん…ですって?」
ようやっと。オウカは其の意図を理解したらしい。
「――在り得無い! そんな筈、絶対に在り得無いッ!」
叫ぶ様にして。或は取り乱してすら居たかもしれない。
「だって、だって、ディースさまは……」
実の所両者其の言葉には反応して居た。
お互い、そんな素振りは見せまいと心がけて居た様だが。
――聴き覚えの在る名、だった。互いにとって。
偶然の一致などと謂う符合では無い。
此の符号の名は――そう、『運命』。
「だが其れが能力授受だ」
拙くすら聴こえる抑揚の無い言葉遣い。
「キョウっ!」
咎めてみても。実の所は、微妙に――
愛おしい?
こんな折に不謹慎な。
何故そんな事を想ったか、セツランには判らなかった。
「……そう。でも、今のあたしにはそんな事はどうでもいいの」
人為らざる其の容姿に。
人為らざる様な表情を再び宿して。
オウカは謂った。不吉な予言を。
「『……此の子を殺せ。たとえ、己の命を捨てたとしても。其れには此の力も役には立とう』……ディースさまはそう謂って私に此の力を賜った」
謂うが早いか。
『力』が在るからこそ為せるのだろう、眼にも止まらぬほどの動きで気付けばセツランを後ろから羽交い絞めにする。
「セツラン」
慌てた声にはなってくれなかったらしい。
驚いては居た筈なのに。
「どうする? キョウ。其れとも、人の心なんて無い貴方には其れすらもどうでもいい事かしら?」
そして、彼女は此の崖の淵すれすれに立って居た。
木々こそ茂って居るものの。此の高さから落ちて、無事な確率など――
「!」
皆無にすら、等しい。
驚愕に打ちひしがれ怒りに目を見開いたせいか。
其れとも、単にどう答えればよかっただけなのか判らなかったのか。
言葉は紡ぎ出せなかった。
「キョウ……」
静かに。
厳かですら在る様に。
セツランが。キョウに向けて謂う。――最期の、言葉を。
「其の出逢いが偶然であれ、必然であれ。『別れ』、其れはどの道避けられないもの。
出逢った以上は別れなければならない様に……人は運命付けられて居るものだから」
哀しげな、笑みを浮かべて。
セツランは、キョウに向かって呟き、そして。
ほんの少しだけ。
体重を、後ろに掛けた。
――彼女ともども、自ら其の崖に飛び降りた。
彼女が宣言した、其の通りに。
「別れは必然のもの……」
小さく、うめく様に。
キョウは、言葉を紡ぎ出した。
最初に在ったのは、驚愕だけで。
後悔や、哀しみや、絶望や――
そう謂った感情が沸き立ってきたのは、其れからもう少し時間が経ってからだった。