第一章『邂逅』
夜。
深い深い森の中。
獣道と呼ぶのも憚らねばならぬ程曲がりくねった道に。
独り、唯静かに歩みを進める人影が在った。
黒。
矢張り最初に受ける印象は其れであろう。
所々擦り切れた黒色のローブ。
其れと一続きになった、顔の上半分がすっぽりと隠れるフード。
腰に覗くのは如何にも此の『善流(えしる)の国』のものと謂った感を受ける、反りの強い刀。
……刀身の色が黒い。
だが其れは錆びた為に付いた様な色では無く。
金にも勝ろうかという妖しいまでの輝きを放った、黒。
―――黒金の剣。
其れは、此の者が破壊術士である事を如実に物語って居た。
「―――!」
一瞬。
黒色の破壊術士が硬直する。
声が、聴こえた。
「少し遠いか」
だが行くしか在るまい。
正直な話厄介事は御免だが。
だからと謂ってこう謂った状況を見て見ぬ振りが出来る程の悪人にも成り切れない。
聴こえてきたのは複数の野太い男の声と、単数の女性、其れも察するに少女の声―――
「驚いたな――」
だがさして『驚いて』など居ないかの様な表情と抑揚の無い声で。
黒色の破壊術士は呟いた。
「……っ!」
稍ゆったりめの、闇夜には少々目立つ白色の道士服。
其れに身を包んだ少女が身じろきする。
此の破壊術士が『驚いた』のは、無論。
其の者が想像した通りの光景が其処に無かったからに他ならない。
確かに、俄には信じ難い。
其処に居たのは其の少女と、如何にもと謂った体躯と服装から見て取れる――要するに『盗賊』というものに類する職業に従事する者で在ろう男達が数人。
……但し。
此の場において正常な感覚を保って居るのは、其の黒色の破壊術士と白い道士服の少女だけだった。
「待て。私は――」
『怪しい者』では無い。
問答無用で其の少女が投げつけた不可視の風の刃――俗に、『かまいたち』と呼ばれるものだ――を紙一重でひらりとかわし。そう謂おうとして、其の破壊術士は思い留まった。
日が昇るまでには時間が在り、月ももう沈んで居る――と、謂っても見えはしないが。
一刻前から降り出した雨は、益々其の勢いを増して足場の悪い路を更に悪くして居る。
不気味さにも、拍車が掛る。
そんな状況下に斯様な格好をした者が突如として現れたらどう想うであろう。
『怪しい奴め!』
恐らくは皆が皆、異口同音に叫ぶ事だろう。
そんな事位は容易に想像が付いた。
「……!」
一瞬、少女がにやりとした笑みを浮かべた事に対する不信感と。己の直感に由来する危機感から咄嗟に後ろを振り返った時。其の破壊術士は硬直した。
(狙いは此れか)
恐らくは。
間に合わない。
だが、どう謂う訳か不思議な満足感が沸いてくるのを覚えた。
不可視の刃に切り裂かれた太い樹の幹は……
確実に。
黒色の破壊術士の頭上へと倒れつつ在った。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
『出逢いは偶然、別れは必然』
よく謂われる事だ。
だが、其れは本当だろうか……
探せば、在るのかも知れない。
『運命』と謂う名の必然の『出逢い』も。
しかし――
『それ』は果して本当に善いものだけだろうか……
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
――察する処。
どうやら自分はあのあと見事に気を失ってしまったらしい。
無理も無い。
常人ならば確実に死んで居ただろうし、縦しんば最悪の事態にならなかったとしても、あれだけの大打撃、確実に脳はやられる。
『自分だから』あの程度の軽い脳震盪で助かったのだろう。
其のせいか否か判らぬが、どうも妙な気分がする。
何か変な夢でも見たのかもしれない。
そう、『運命』がどうのこうの……
そういった内容のものだった気もするが、善くは覚えていない様である。
妙な気分、と述べたがしかしだからといって其れは必ずしも嫌悪感を帯びて居るものであるとは限らない。
霞が掛った風にも想えれば、快晴の空の様な面持ちもする。
『虚無の如くに満たされた』
そんな表現が適切であるかの様にも想える。
再び、寝入ってしまおうか。
そんな事も想ったが、其れは其れで下らないので――辞めた。
むくり、と起き上がると暗闇だった視界が一転して自分の置かれて居た状況が判る。
在り難い事に、どうやらローブは脱がさないで居てくれたらしい。
正直な話、素顔は誰にも見せたく無いし、見られたく無い。
「あら? 気が付いた? 結構丈夫なのね」
不意に。
声が挙がる。
高い位置で結わえられた、健康的な清潔さを感じさせる長い黒髪に其れと同色の瞳。
此の善流の国においては一般的な眼と髪の色である。
唯、肌の色はやや日に焼けて居る感じがした。此れも何処か健康的で清潔的だが。
口元に浮かべられた笑みは何故か『母』を連想させる。
自分を介抱してくれたと謂うのだろうか。
そう想い、礼の言葉を口に仕掛けた所で。
「あ……の……すみません! 勘違いしてしまって!」
先程の、白の道士服に身を包んだ少女が現れ、深々と頭を下げて詫びを述べる。
さて、どう謂った訳が在って見分けが付いたというのだろう。
其れは疑問であったが、
「構わぬよ。迂闊にあんな所をうろついて居た私も悪かった」
とだけ一応答える。
正直な話を謂えば迂闊にうろついて居た、等と謂う訳では無いのだが。
「其れにしても、何であんな所に?」
素直な疑問を口にしたのだろう。
女性の方が口を開く。
少々の間。
「ラルグルブ」
小さく。漏らす溜息の様な声。
「え?」
そうだろう。どうせ此の国では『此の言葉』では通じない。
「恐らくは」
今度は、明確な――しかし、抑揚の無い声で。
「其の少女と私は同業者だ」
といって少女を指しかけて――辞める。
其れが礼儀に反する行為であると想ったからだ。
「……面白いわね。『破壊術士』の『逆物取り』?」
何処か。其れは悪戯っぽい笑みだった。
ああ、矢張り『彼女』に似て居る。己の、母に。
ふう、と彼女は虚空を見詰めて溜息を付き。
「私の名はヒコ。あっちはセツラン。妹、見たいなモノかしら。本当に御免なさいね、迷惑を掛けてしまって。もしよければ――貴方の名は?」
と、ヒコは黒きものに向かって問い掛ける。
名前。
一応、親から貰った名前は在る。
しかし――
「……キョウ」
「キョウ?其れが貴方の名前?」
返事を言葉で返す代わりに、首を縦に振る。
其れとも或は、此の国では珍しい名になってしまったのだろうか。
「どんな字を書くのか気になっただけ。でもいいわ、今度機会の在る時に聞く。読み書きはあんまり得意じゃないの。もう暫く休んで居た方がいいわ」
其のことに気付いたらしく、ヒコはそう謂って。
部屋を立ち去る。
「あの……私……」
取り残されてしまったセツランは。
今にも、涙を流してしまいそうな表情で。
(こんな何処か意地悪な性格ですらあの人に似て居るか)
しかし、キョウは楽観的にそう想って居た。
だからこそ、くすりと笑って。
と謂っても、皮肉気に浮かべられた筈の其の笑みは己の感情を表現する方法を良く知らない為か何処か引き攣ってさえ居る様に想えたが。
「構わぬと謂った筈だ。白魔術士か?」
癖、なのだろうか。矢張り余り抑揚の無い声で。
セツランに、問い掛ける。
白の道士服を着るとなれば、そう考えるのが自然だろう。
「あ……はい。でも……」
大きく、円らな黒の瞳。
年齢のせいだろうか。髪はそう長くは無い。
セツランは正しく人形の様に愛らしい少女であった。
「でも?」
そんな、彼女を見詰めながら。
キョウは、言葉を紡ぎ出す。
「謂え……何でも在りません。幾等御詫びしても足りませんが、否は総て私に在りますから……」
切なげで。
儚げで。
けれど、だからこそ手折って持って帰ってしまいたい、高嶺に咲く小さな花の様で。
(『雪蘭花』か、成る程な)
彼女は、そう謂い残して。
此の部屋を、あとにした。
ヒコの謂った様に。
自分には、もう少々の休息が必要だろう。
ヒコは、彼女は此の村では中々に名の知れた医者らしい。
確かに、名医と呼ぶのに相応しいだろう。
自分を見た時から、そうであろう事は容易にキョウには想像が付いた。
己の母は、同時に腕のいい医者でも在った。
セツランは此の土地の生まれでは無く、不慮の事故で親を無くして各地を放浪する生活を続けて居た所此処に辿り着いたらしい。薬草にどう謂う訳か詳しく、また筋が良い為、彼女のいい助手としても働いて居る様である。
母があの人だった為に否応無くキョウの身に付いたとも謂える医薬学の知識は、しかし此処では大いに役に立って居た。
其れだけで心地のよい寝床と熱く旨い食事を提供してくれるというのならば自分の技術を提供する事は容易に出来た。
そして――そんな。在る日の、事。
『彼女』はヒコの元を訊ねてきた。
「お願いします! お金なら如何にかして、幾等でも作ります! 私ならどうなっても善いんです! だから……だから、あの人を……」
語尾の方は、消え入りそうになって居た。
涙すら、流して。
縋る様に、彼女はヒコに向けて叫んで居た。
「どうかしたのか?」
隣室で、セツランと共に薬草を擂って居たキョウが、不審そうに――キョウなりに、感情は篭って居ると判断される表情で――ヒコに問いただす。
「キョウ!」
別段、此の町では普通の服だ。髪と瞳も黒で、珍しくも無い。背の方はやや高めだったが。化粧っ気は全く無い。日に余り焼けていないところをみるに、農ではなく商を糧を得るための手段として居るのやも知れない。名をオウカと謂うのは、あとで聞いた。
何分、キョウの容姿は始めに出逢った時と何ら変わりが無い。オウカはキョウを見て、少し身を退く様な素振りを見せ。だが此の侭ではいけないと想ったのか、毅然とした態度を取って。
「主人を……助けてください」
謂った。
「主人?」
と、問い訊ねるが人らしきものが布団に横たえられて居るのにキョウは気付いた。
そう――あくまで、『ヒトらしき』ものが。
「酷い火傷だ」
全身は、見るも無残に爛れてしまって居た。
いや、其れだけでは無い。判別はしにくいが、此れはもう私刑を受けたとしか想えない様な傷も幾つか見受けられる。
こんな処に運ばれるからには、まだ生きて居るのだろうが、しかし――
「まだ息も脈も在るんです! お願いです、主人を助けてください! 主人を……私は、どうなってもよかったから……」
縋る様に。オウカは、叫んだ。
「……落ち着いてください。勿論、治療は致します。――出来る範囲で、ですが。先ずは、状況を説明してくださいませんか?」
泣きじゃくるオウカを宥める様に。
ヒコが、問い訊ねる。しかし。
「出来る範囲での治療か」
投遣りに。
ただでさえ抑揚の無い声を、投遣りに。
キョウは、謂った。
「五分五分どころか一厘も在ればよいほどの可能性だな」
確かに。オウカの夫が生き延びられる確率は、そんなモノだった。
「そんな――!」
「キョウ!」
流石に。此れには怒りを覚え。ヒコは、キョウに向けて叫んだ。
「私は事実を謂ったまでだ。医者如きでは此の者は直せまい」
いつもの様に。抑揚の無い声で。キョウは、そうとだけ謂った。
……確かに、其れは事実だ。
「じゃあ……じゃあ、貴方ならば治せるって謂うの!? こんな酷い状態で……」
声に怒気を孕んだまま。
ヒコは、キョウに向けて謂う。
――叫ぶ、様にすら。
一旦。
キョウは、言葉を詰まらせ。
だが。
「いいのか」
判らなかった。
「私が術を使ってもよいのかと問い訊ねて居る」
許可を、求めて居た事が。
横たえられた、彼を見据え。
キョウはそう、呟いた。
「……治せるの?」
行動が。
返答だった。
含む様に。
何かを謂って居る事だけは判ったが。
声が小さすぎるのか――いや、多分此の国の言語では無いのだろう。
何を謂って居るか迄は判らなかった。
唯――酷く上手い手の様に。
浪々と、其の言葉は紡がれつづけた。
普段の、抑揚の無い言葉からは信じられぬほど。
「え……?」
其れは、光。
金の、輝き。
いや……?
此れは、金と呼ぶに値し無い。
此れは、金では無い。
金にも勝る、黒の、輝き。
此れぞ正しく、黒金の輝き。
光は、其の者の全身を包み。
そして――急激に収束する。
皮膚の色は、正常な色に戻り。
打撲のあとも、裂傷も、其処にはもう無い。
「う、そ……」
想わず。
ヒコは漏らした。
「キョウ!」
取敢えず。
隣室で待機して居たが、様子の気になったセツランが、此れには耐え切れず、掛けるほどの勢いでやってくる。
「キョウ……余り、術を使いすぎないで」
此れが、術者にどれだけ負担の掛る術か。
其れ位なら、見習いの自分でも判る。
(矢張り判るか)
舌打ちの動作に、よく似て居た。
実際には後悔や焦りなどと謂うものはキョウは知らなかったが。
「彼次第だ」
セツランには、構わず。
「え?」
ヒコに、キョウは吐き棄てる様に呟いた。
「魔術は万能では無い」
一旦、言葉の意図が理解出来ない。
「破壊術士よ、貴方は」
そんな喋り方も、キョウの癖かもしれない。
「医もまた同じ」
自分独りで、納得して居る。
「――!」
唯――
其れとも、唯或は――
「此処から先はそなたの仕事だ。此れが私の『出来る限り』だ」
(素直じゃ、無いんだから――)
そう、心の内で呟いて。
「ありがとう」
含む様に、ヒコは謂った。
「私は、礼を謂われるほどの事をしたのか?」
此れは笑うべき動作だが。
キョウは本当に其の事を理解して居なかったのかもしれない。
すっくと、立ち上がり。
六尺の背は戸の外に消えた。
水でも、汲みにいったのだろう。
「最初は……単に近道をしようと想っただけなんです。ちょっとした用事が在ったんですが、其れが長引いてしまって――でも如何しても早めに帰りたかったので」
安堵、からなのだろうか。
再び。
泣きじゃくる様な動作をして。
オウカは、言葉を紡ぎ出す。
「唯――御判りの通り、あの山中は危険な道です。私は賊に、出くわして――」
己の肩を掴み。小刻みに、震えだす。
「あの……無理して喋ってくださらなくても結構ですから……」
優しく。
ヒコが、言葉を掛ける。
そんな際、何が起こったか等――想像は付く。
「若い女性が不用意にあの様な処をうろつくものでは無い」
心優しい注意なのか、呆れての発言なのか。
抑揚の無い声では判断しにくい。
「キョウ――!」
ヒコの口調は、悪戯をした子供を注意する時の口調にも似て居た。
「謂え……本当に其の通りですから。『まさか私に限って』と謂う、其れがいけなかったんでしょうね……」
ふぅ、と溜息にも似た吐息を一旦つき。
オウカは再び言葉を紡ぎ出す。
「其れで……私の帰りが遅い事を心配してくれたんですね、主人はわざわざあの森の中に入ってきてくれました」
「だがそこで逆に返り討ちに遇ったのか」
別に、其処まで判断材料をくれれば分析をする事は簡単だ。
「――はい……。一応、商人の割には、力自慢で有名な人だったんですが」
しかしながら。
「あの人数では通常の人間では太刀打ち出来まい」
オウカの話に耳を傾け、合いの手をうつのは其処に興味を抱いて居るから等では無く――
「あの連中!」
想わず。今まで黙って話を聞いて居たセツランも叫びだした。
「知って居るのか?」
平静に。
と謂うより、感情など無いのかもしれないが。
キョウがセツランに問う。
「キョウ、貴方も出逢ったでしょう?」
六尺在るキョウとでは、身の丈の差がありすぎる。
見上げる様に――其れでも、キョウの素顔はフードに隠され判らない――セツランは謂った。
「矢張りあいつ等か」
多分、そうだとは想って居たが。
よくもまあ、懲りないものだ。
先日、こんな小さな少女にあれほどもの打撃を受けたと謂うのに。
「あの……お名前、お伺いしても宜しいですか?」
きょと、と。
首をかしげる様な動作をして。
「オウカ、と申します」
彼女は、ヒコに微笑みかけた。
「よい……名前ですね。一応……薬を出しておきます。暫くは、安静にしておいてあげてください」
ヒコも、また。
笑みで、返す。
「はい。有難う……御座いました」
呟き。
ちらと、キョウを横目に見遣る。
何か、妖しの者でも見る様に――
(破壊術士の運命だな)
此れは、仕方の無い事。
破壊術士は、疎み嫌われる存在。
いつの世も――
言霊使いは、同時に破壊術士でも在るというのに。
所詮、世界などこんなものだ。
「桜の花、かぁ……」
憧憬にも似た表情で。
セツランは彼女の背を見詰めて居たが。
「桜は血を吸う事で、あの淡い紅色を作ると謂う」
キョウは、少々不気味な事を呟いた。
何か――彼女に違和感を覚えずには居られなかったのだ。
其れが何かまで、判らない自分が悔しいだけだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
半年。
放浪癖の在る自分が、まさかこんなにも永く此処に逗留出来ようとは想っても見なかった。
恐らくは、此れも偏に――
ふと。
自分の隣に居る少女を見下ろす。
見詰めたいと想ったら、此の背丈の差だ、そうするより他無い。
半年経っても、セツランの背はさして伸びてない。
寧ろ、逆に『少女らしさ』の方に磨きが掛って居るのか、己との差は開くばかりな気もしてならない。
魅力的な、少女。
此の腕に、抱き締めたいと想って居るのに。
どんなに優しく扱っても。
瑠璃細工の様にふと壊れてしまいそうで。
触れる事すら躊躇ってしまう自分が居る事は、少々情けない事だと想うが。
此れは、事実なのだから仕方ない。
――仕方ない、と自身に言い聞かせて、キョウは其れで納得し、満足する振りをして居た。
「綺麗!」
想わず。
セツランは大きな声で叫んだ。
薬草取りは、自分達の役目。
もろもろの事情も重なるので――とは言え、矢張り一番の理由は此の二人の共通の『職業』のせいなのだが――こんな、少々常識では無茶の在る時間帯に薬草取りを二人はする事にして居た。
「成る程、日出づる国(エシル・ヌス)の名は流石だな」
キョウも其れに返す。
矢張り、抑揚の余り無い声出だったが。
……朝日は。
二人が此の仕事が終わる頃、丁度昇ってくる朝日は。
特に此の日は例える何かも無いほど荘厳で美しく……。
――昇陽の神エシル=ヌス、没陽の神テス=ヌス。
二人の、太陽神。
自分の知って居る神話において、真っ先に出てくる、咎を犯したもの――
「キョウ?」
其の名を理解出来ぬ筈は無い。
セツランとて、魔術士だ。
いや、そうでなくとも、此れは、誰でも知って居る――名。
双神の名は。此れから付いたと謂う者さえ居る。
大地の名は、大地。
別に、己は其れで善いと想って居るが。
「どうか……したの?」
不審と謂う表現が、適切。
見上げる様に、けして見える事の無いローブの中を覗き込んで。
「私は如何かした様な顔をして居たか」
謂ったセツランの言葉に平静に。
いつもの様に、声に抑揚をつけず。
キョウは、応える。
「謂え……そんな気がして……」
嘯く様に。セツランが謂う。
半年経っても。
キョウの素顔は、まだ見られて居ない。
いや……
其れは案外別に、どうでもいい事。
自分が知りたいキョウの『素顔』は外見の素顔じゃなくて――
心の、素顔。
(私は……許されざる恋をして居るのやも知れぬ)
今、自分は笑っただろうか。
ふと、キョウは考える。
拗ねる様な仕草すら。
可愛らしくて、愛おしい。
けれど。
(此れは……何だ?)
不安。
そう、不安だ。
此れは、不安と謂うものだ。
未来へ感じる不安によく似た、不安だ。
自分は、不安を感じるほど弱い生き物では無い――と。
言い聞かせる様に、心のうちで呟いてみるが。
(……何かが起こる)
其れだけは、確実な事。
そう遠く無いうちに。
ひと月先か。
明日にでも起こるか。
一刻あとか。
其れとも――
(其れとも、ほんの刹那の内に)
恐らく、其れが正解。
セツランが褒め称えた朝日をじっと、睨みつける様にじっと見据えながら。
キョウは平静に、自身が感じたものを分析して居た。
優秀な、占部(うらべ)の様に。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
漆黒。
何よりも適切な表現は、其れだ。
闇。
総ての光を、許容しない。
そうとしか表現の仕様の無い部屋、いや、空間。
其の床に描かれて居るのは、大きな魔方陣。
中央に佇む、一つの人影。
いや……?
『それ』が本当に『人』で在るのか否かは妖しい処だ。
其の者は此の部屋と同じ、漆黒を身に纏って居た。
瞳に移る色は、此れよりも深い闇。
どんなに強い光も、此の闇には太刀打ち出来なかろう。
「……ディース様」
挙がった声に。
「オウカ……」
ふと、彼は小さく返事の代わりに彼女の名を呼んだ。
「構わないよ、面をあげて。君の顔は美しい」
言葉浴びられ、そして彼女は其の『命令』に従った。
――あの、『オウカ』。
そう、彼女はあのオウカ。
こざっぱりした服装と。
簡素に結わえられた長い髪と。
けれど……違う。
表情が。
無言で。
ふと、笑みを彼に捧げる。
赤い唇。
毒々しいまでに、赤い唇。
「……オウカ……今日の日付と今の時刻は判るかい?」
ディース、とオウカに呼ばれた彼は彼女にそう訊ねた。
「……双神暦一〇二四年、天蠍の初日、寅の刻――で御座居ます」
こうやって。
彼は定期的に彼女に同じ質問をする。
彼は、此の部屋から出る事は愚か其の足で歩く事さえ叶わない。
だから、ディースはそうやってオウカに同じ問いを繰り返す。
「そうか……」
小さく。
彼は呟いた。
此処までは、同じ反応。
けれど。
「……始まった、な……『運命と謂う名の逸話』は」
彼は、笑って居た。
珍しく、少し哀しげに。
「……は?」
彼女は想わず、声をあげた。
彼は続けてくすりと笑って。
「オウカ……君に頼みたい事が……いや、渡したいものが在るんだ。受け取ってくれるかい?」
独白した。
「……ディースさまの御命とあらば」
切れ長の、冷たい、瞳。
けれど、其の笑みは何処か優しい。
彼だけだ、彼女がこんな笑みを見せる人間は。
そう――彼の為ならば、何でも出来る。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
漆黒。
何よりも適切な表現は、其れだ。
闇。
総ての光を、許容しない。
そうとしか、表現の仕様の無い――
色。
或は、黒金なんかより。
こんな黒の方が、余程美しいと感じる時が在る。
「ノガード・クラド」
漆黒竜。
ふと逡巡する様な素振りを見せてから。
其の名を、ようやっと思い出す。
何故一瞬思い出せなかったのかが。
不思議な位で。
でも――
理由は、よく判って居る。
「セツラン!」
不思議な事に。
形では無く色の方が先に見えた。
其れ程までに、強烈な、黒。
朝日の黄金に異物の様に混じった、其の『夜』を見つけ。
セツランは、想わず駆け出して居た。
(此の時が――来た)
後悔。
らしくも無い舌打ちする動作をして。
ともあれ、セツランは真直ぐ朝日に――
其の竜に向かって、駆け出した。
何も、謂わず。
唯、只管に。
何かの呪にでも掛ったかの様に。
後々になって。
キョウは『其の時』が来た事に気が付いた。
まさか此処まで驚愕してしまうとは、自分でも想っても見なかった。
空っぽ。
自分の心は、空っぽなのに……。
唯、肺病にでも掛ったかと謂うほどに息苦しさを感じずに入られなかった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「双神暦一〇二四年、天蠍の初日―――」
謂う、というよりは其れは寧ろ『読み上げる』のに近い感覚だった。
感情というものを微塵も感じさせない、声。そして表情。
いつもは高めの場所で結んだ、さらりとした長い黒髪には此の時は何もして居なかった。
或は此れが彼女なりの『けじめ』なのかも知れない。
「始まった様ね。『運命』という名の必然の『出逢い』が……」
口の端をにやりと吊り上げる様な感覚で。
ヒコは、そう呟いた。