それが、真実だとは限らない。


「仕事を探しているのだが」
 ――また来た。
 この時世だ、職どころか明日食べるものさえままならぬ者も多い。ということは、雇う側だって大変なのだ。間にあってるよ、と軽くさえぎろうと面を上げ。
「……二人で日銭五十だ。但し至日までだぞ」
 逡巡はしたが思わず、そう口をついて出た。
 視線の先にたたずんでいたものは二人。一人は男で一人は女、ともにどちらも背が高い。女が少々すらりとして冷たい印象なのに対して、男のほうは純朴そうでがっしりとしている。纏っているものは女は位の高い武人風で、男はただの襤褸よりまし、といった使用人風。しかし、そんなことはどうでもいい。目に付いたのは、その色。
 その二人は、互いに一度目にしたら忘れようもないほどの赤を身に纏っていた。


「……よく、雇ってくださりましたね。あの方」
「もう仲夏も終わりだからな」
 十二支で言えば午、方位で言えば南。日はちょうどそちらを向いて、一年で最も日は長くなりそれから短くなる。
「え? その……」
「ああ、シアチー……夏赤といってな、芒種から夏至に掛けての折……まあ、大概は夏至の日か、その二日だけなのだがな……その日には、南方に向かって紅い蝋燭を灯すのだ。それもちょうど、午の刻の間にな。そんなものを売るのだ、この髪も役には立とう」
 南。午。赤。火。
 二十四節気と、五行と方位と。それぞれを絡ませた行事だ。
 転じて、そのための赤い蝋燭そのものをシアチーとも言う。
「すみません、そういうことは聞いたことがなかったものですから」
 言葉が喋れたり、ある程度人の世の習慣が理解できたりするのは、かの策士が施した何らかの術のようなものによるらしい。それでも、やはり季節行事や官位の制度などについては拾いきれていないようだった。あるいは、あのもののことだから『不要なもの』と判断して教えなかったのかもしれない。
「季節を迎える祈願というか、節目のようなものだな。宮中では……この日は南の方戍だったものにとっては特別な日だ」
 四方にはそれを戍る神がいる。その力を得て中央である都を守る。それが方戍の勤めだ。この剣はだから、武器であり神器である。
「……客商売には無粋だな。おまえに預ける。先に荷をまとめて宿に運んでおいてくれ」
 けれど、燎火を失ったそれは最早神器ではない。
 慣れてきたとはいっても、やはり思うようには振り抜けないそれは、武器にはならない。
「リン様……」
 それでも、武人が剣を自分に預けたということは、命を預けたということにさえ等しい。
 それだけ、信頼されているのだということが伝わってうれしかった。
「なに、ようはお飾りの売り子だ。大声を張り上げておけばどうにかこうにかはなるだろう」
 結局リンは軽く微笑んだ。
 どきりとするほど、切ない笑みに見えた。


 そして、邂逅は起こった。
 傍目から見れば、大荷物を抱えた少年と、こちらも大きな剣を、体躯はよいほうなのにわざわざ両腕で大事そうに抱えた青年とがちょうど同じ角を別な方向から曲がろうとしてぶつかった、ということがわかっただろう。
「ああ、すみません、だいじょうぶでしたか?」
 はるか頭上より低い声がしたので、自分の寸法を差し引いても大柄な男とぶつかった、と少年は判断する。
「ああ、はい。すみません、家公(だんな)様からの仰せで少し急ぎの用を……」
 怒鳴り返そうかと思ったが、その謝辞があまりに丁寧で礼節に満ちたものだったので、少年はこちらも丁寧に返した。
 赤。痛む頭を抱えながら面を上げた少年の目にまず飛び込んできたのが、その色だった。優しそうな目。その色も赤い。口元が動く。この体躯に見合った声の低さなのに、口調が弦の音のように妙に優しいのが不思議な感じを受ける。血のような、炎のような色ばかりその身に纏っているのに。
「いえ、前をよく確認していなかったのは私も同じですから」
 田舎とはいえ、官庁のある都、その往来である。それなりに大きな街の、それなりに大きな街道。こういった場所では、うっかりすると簡単にこんな衝突事故が起こってしまう。人同士ならまだよいのだが、馬車に轢かれる者などは悲惨だ。もっとも、そこを歩くものはその道を歩く術をえてして心得ているものなのだが。
「お急ぎですか?」
 少年は、その色を何とはなしにもう少し見続けてみたくなってしまって少し会話を引き伸ばした。真冬の焚き火のように、優しい、赫。
「ええ、シアチー売りの仕事が」
(シェイファ様よりもお小さいだろうか……。それにしても、しっかりとした御子だ)
 そんなことを、少年とぶつかった赤い大柄の男――リアンは思っていた。
「ああ、それはぴったりですね。……ところで、私はまさにそのシアチーを買い求めるよう主からおおせつかったのですが、よろしければどちらで働いてらっしゃるのかお教え願えませんか? だんな様のお屋敷はお広いですし、幾本かまとめ買いをするつもりなので、何かの縁と、その分も少々お安くしていただければうれしい限りなのですがね」
 少年は、そうたずねて少しにこりと微笑んだ。本当に、しっかりとした御子だ。


 その少年は、名をイェンという。
 響き自体は珍しくないが、当てる字は珍しい。眼、と書くのだ。
 それはひとえに彼の主に起因する。主は本来の名を名乗れというが、それは少年にとっては最早意味のないものなので、この名を名乗っている。
「ただいま戻りました。シアチーを買って来ましたよ」
「ああ、ご苦労だったな」
 少年の主は、そっけない返答を返す。すらりとした、細身の長身で動作はひたすらに優美。ただ、それに決定的な違和感を与えるものが、ひとつだけ。彼は、その眼に目隠しとなる布を巻いていた。イェンはその下にあるものを見たことはない。わざわざ隠すほどであるし、隠すということはつまり見せたくはないということだから、望んで見たいとは思わない。むしろ、だからこそ今の自分は主の『眼』でいたいのだ。
「どこに飾ればよろしいですか」
「どこなりとも」
 イェンには背を見せ、彼は竹簡に文字を彫ったものに指を沿わせながら、いった。これであれば指が眼の代わりになる。そつない返答は、どうせ己にとっては燭など何の役にも立たぬ、ということをその背で態度で言い放っているようでもあった。それでも、こんな行事を自分に教えて執り行うようにさせるのだから、変わったお人だ……とイェンは思う。
「ああ、そう言えば、夏赤と言えば赤い髪をした方をお見かけしましたよ。珍しいですね、こんな南方で、それも二人も」
 赤い髪は珍しい。都か、いや都でもそこまでは見ない、西域にいるものでようやっとちらほらと見かけるといった程度か。西の方に住まうものの中には特殊な髪をしたものがちらほらといるのだ。だからといってほかでは皆が皆、真っ黒い髪をしている、というわけでもないのだが。
「赤い髪?」
「ええ、二人ともシアチー売りのお方で。染め抜いてもあんな色は出せないと思うから、多分そうだと思うのですが……。一人は髷は結ってらっしゃらなかったけど、背が高くて、優しそうなお顔立ちの方で。大きな剣を携えていらっしゃったから、本当は剣士の方だと思うのですけど……」
「大きな剣?」
「ええ。凄く風格のある感じの、見事な細工の紋章入りの。確か紅い鷹のような鳥だったと思いますけど……」
 優しそうな顔立ち、というそれだけが引っかかったが所詮そういったものは主観によるものだからという濾紙を通せば、思い当たる人物が一人だけ彼にはあった。そう、彼はこの国の中枢をなす場所にいたことがある。
「……リャオチェン? リャオチェンがこんな処にいるのか?」
 話には聞いていた。自分もかつては宮中に仕えていた身、謀反の話はあまり快く思っていなかったし、実際皆の身については、半ば絶望視していた。
「お知り合いですか?」
「ああ、まあ、そんなところだ。懐かしいな……。しかし、よりにもよってシアチー売りか、傑作だな……」
(あの気位の高い無骨な男がか? 夏赤の要の南の方戌が、赤蝋の売り子を?)
 その様を想像して、思わず笑みが零れる。
「探してきましょうか?」
「頼んでもいいか? しかし、日が暮れてしまうな……。持ち合わせは少し多めに持っていくといい」
 いったところで、実際にものの売り買いをするのはイェンだから、何がどこにあるか、は把握している。ただ、それを扱わせる権限が主にあるというだけのことだ。
(鎖などなくとも、金を握らせた奴隷を扱えるのがよい主のひとつかも知れんな)
 こういったそのやり取りをするたび彼は思う。
 そして、そのきっかけを与えてくれた南の方戌も含めて懐かしい宮中の思い出にひとしきり思い出に浸ろうとして、彼は例の赤い髪をしたシアチー売りのもう一人は誰だったのか、ということに思いつく。
「いい女だったら一度会ってみたいものだ……」
 竹簡を『読む』のを止め、虚空に向けて呟く。それにあわせて卑屈に嗤う。
 ……そう、それが原因で、自分は光を永遠に失ったのだから。


 髪を、ほどいた。長い長い赤い髪。
 髪は、動きやすいように軽くまとめる程度に束ねておくのが癖になった。結い上げはしない。自分独りでそんなことをすればどんな目にあうかはわかっている。……リンは不器用なのだ。ほどいてみれば、さらに露わになって揺れる紅い髪。ぞっとするような気さえする色の、真紅の髪。
「……どう、思う」
 そして彼女――リンは己の僕に問うた。
「え…? その、素晴らしい色だと思いますが」
 逡巡し、それから僕は出会ったときと、同じことを口にする。あい変わらずの、朴訥だが優しい口調。
「そうではなくて。単に『あか』と一口にいってもいろいろとあるだろう? 本来、私の髪は赤銅色だ、それだというのに今はどうだ?」
 赤銅。たしかに、よくそのような色だと呼び習わされていたと思う。無理をすれば、栗色と呼べなくもなかった。しかし、今は。
「最初は手入れをしておらなんだで、渋みがかった色にでもなったかと思ったが」
 緋色というのは、確かこの色の名をいったか。日に日に赤くなっていく髪は、最早そのような色になっていた。
「それは……」
「存外、私の死期が近い徴かも知れんぞ?」
 雅などよくわからない。色の名も、詳しくは知らない。ただ、思った。
 ――この色は、血の色であると。
 それは、自分の最も見慣れた色。自分が纏うのに、最も適した色。
「そんな」
「どうかな、表情ひとつ変えずに私に毒を盛りそうなものがついてきておるよ」
 渋い顔つきで、リンは傍らに視線を遣る。案の定、見慣れた顔がそこにあった。リェンリー。自分にこの名を与えた主でもある、怜悧な策士。
「あはは、なんだ、ばれてた?」
 顔は見慣れたものだが、しばし見ないうちに服装は一段とわけのわからないものになった気がする。衣の布の大きさが減ったようだが、それとは反対につけた飾りの数が増えている。少し動くたびに、じゃらじゃらと言う音が鳴った。
「うん。面白い考察だけどね、ハズレ。僕は毒なんか盛るよりもっと効率いい方法をとるよ。もっと劇的で効果的な、ね」
 この男の表情が動くのは大概この口の端を吊り上げただけ、という笑いしかない気がする。そういう意味では異常に表情の変化が少ない。
「あのね」
「なんだ」
 この男に対してさえ、動じない返答ができるようになってきたものだ、とリンは思う。
「僕は悪役だよ? 信用しないほうがいい」
「なにをいまさら」
 ひとつ、間ができる。正直な話を言えばリンはここで去ろうとした。それができなかったのは気の利いた捨て台詞が思い浮かばなかったことと、その間にリェンリーのほうが口を開いたからに他ならない。
「スーレンの力を受けたものは姿が歪む。それだけ」
 饒舌である――と、リェンリーは今の自分をそう思う。これはどこまでが必要のない会話で、いや、そもそもどこまでが必然であったのか?
「本当は……実体なんか残らない。そもそも消えてるはずだった。君は特殊なんだよ。うまくもとの君とスーレンの姿が混じっている」
 リンも、その独白にいぶかしむ。
 この男が何かこういったことを語ったことがあるだろうか。問いただしたいが、真実が欲しいのかどうか、それが自分でもよくわからない。
「それで今のこの私の姿があると?」
 何を、どう解釈して何と結びつけて思考したらよいかがよくわからない。直感に頼ろうとしても、思い出すのは、死人のように冷たい、あの女の手と、冷ややかな声。
「そうだね……」
 ひとつ。またかの道化師が口の端を吊り上げて笑う。嘲笑に、少し近い気もするその笑みで。それをリンが認識したと同時に、ああ、彼が自分の下へ歩み寄って近づいてくるな、と感じる。
 そう、たしかに、歩み寄った程度のはずなのに。
 それなのに一瞬のうちに自分の間合いは完全に殺されていた。
 殺気など、ほんの少しも感じなかった。殺気どころか、どのような気配でさえも。
「まあ、だからこんなにも美人なのだろうね」
 く、と引き上げるようにして差し出した手でリンのあごを少し上向きにさせる。この動作は、本来行う側のほうが背が高くないと意味がない。見下ろす、かえって高圧的に感ぜられる美人の視線があったがこちらのほうが好みかもしれないなどと不意にリェンリーは考える。妙に人間的な思考で、それを追い出したかった。
 ぞくり、とリンは震える。背を、一筋冷たいものが流れ落ちるのを感じた。
 別な場所をつかんでいたら。別な行動に移っていたら。首をつかんで折ることも、急所に刃を突き立てることも、彼には可能だった。……そして、それだけのことを今からしそうな危なさが彼にはある。
 鼓動が、乱れる。呼吸が、乱れる。
 ――切り抜けろ。
 そう、ここから、抜け出せと本能が叫ぶ。
 呼吸が、まだ乱れている。
 鼻から吸う。とめる。気を腹の下、丹田に集中する。ゆっくり、長く口から吐く。そうしながら、頭頂部、百会に気を抜いてゆく。基本の、呼吸法。
 少しだけ、頭が冴える。また息を吸う。今度は、腹の底から叫ぶために。
「今日は私のほうから去らせてもらうぞ……。リアン!」
 ただ、立ち尽くすだけだった僕を呼ぶ。
 しかし、その狂気の主は少し惚けたのにも似た表情をさらしているに過ぎない。
 その手を力任せに振り解き、そそくさと、リンは僕を引き連れていった。
 そしてその場には一人、リェンリーが取り残される。頭に霞がかかったような感触のままそれを眺め、呟く。
「……僕には時間が、もうないから」
 また、風に溶けて気脈に乗ろうとして――
「――!」
 己の内側を、激痛が走るような感覚。痛覚など自分は持っていないはずなのに。
「本当にもう、時間がないな……」
 こういう形で歪みは現れる。
 手を、策を講じなければ。
 意味もなく手を虚空にかざす。……世界が淡く透けて見えた。
 もう保てない。この幻を保てない。そして、いずれ姿どころかすべてを失う。もうすでにいろいろなものを失っている。いや、そもそも持ってさえいない。
「そう……ホントは、実体なんか残らないんだよ」
 ずるい……とそう思うほど低俗な感覚は備わっていない。
 備わっていないが、せめて最後にひとつ博打を打ちたい。自分の望みを、かなえるための。


 やっと、鼓動が収まってきた。
(あの男……何者なのだ?)
 正体自体は無論気にはなるが。所詮、自分の認識できて理解できる世界などというのはわずかで狭いもの。つまり己には、知らないしわからないことのほうが多いのだ。それを無理してわかろうとまでは思わない。ただ。
「ただ……あ奴の目的は何なのだ?」
 ただ、掻き乱すためだけに存在しているような気もする。その癖――
「道を、お示しになられているのだと思います」
 ああ、そうだ、僕とともに宿に戻ってきたのだった。そんなことをいまさら思い出す。
(まだ、動揺しておったか)
 リンが少し苦い笑みをかみ締めたところで、部屋の戸をたたく音がした。
「ああ、宿の方か。食事も湯浴みも今日のところは結構なのだが……」
 そこにたたずんでいたのは、一人の少年――つまり、来客だった。確か、今日の昼に会った。
「こんばんわ。こちらにお泊りだと聞いたものですから、たずねてきてしまいました」
「イェン殿、だったか……。しかしなに用か?」
「家公(だんな)様があなた方にお会いしたいそうで。夕餉にお招きしようと思ったのですが……お邪魔だったようですね」
「いや、屋台で適当に済まそうと思っておっただけだ。ありがたく頂戴いたそう。なあ、よいだろう、リアン」
「え、ええ……」
 リアンが少し戸惑ったのは、主にかつてのことを思い出させてはしまわないだろうか、という不安からだ。話しによれば、この御子の主はかつて宮中にもいたことがあるらしい。そして何より……イェン、という響きを持つこのもの自身の名のせいだ。
 だが……気づくべきだった。それは、何よりも先に己の主が気づき、そして感じていることだと。
「だいじょうぶだ。親切をありがたく受け取るとするだけだ」
 小声で、リンは僕の耳元に囁いた。背をあわすためにこころもち、爪先立ちになる。
 リアンは少し、肩を落とした。これでは――自分はただそこにいるだけで、何の役にも立ってはいない。
「どうかなさられましたか?」
 その二人の仕草に不審というより疑問を感じたのだろう、すぐさまリンが返答した。
「いや、なんでもないよ。では、早速ゆくとしてみようか」
 何、とられるほどの荷もないだろう。だが……それでも、この剣は持っていこうか。なんとなく、それでも、かつての己を知るかも知れぬものに対して、この紋章がこの剣が己を纏う、甲冑にさえなるような気がするから。


 道すがら、雑談に話は咲き。まさにその地点、その門扉についたところで、不意にリンは気づいた。
「そういえば……そなたの主の名は聞いたことがなかったな。なんとおっしゃられるのだ」
 紹介はされるだろうが、一応知っておく方が失礼がないというものだ。だが、次の瞬間得られたその返事は、リンを驚愕させるに足るものだった。
「ユーロウ様、とおっしゃいますが」
「ユーロウ!?」
 はっと気がつき、口を噤み――しかしもう遅い。知っている名、だった。いや、それどころか……
「お知り合いでらっしゃるのですか!?」
 そのリンの言動に思わず、イェンは問い返した。少年の目が輝かしく、少しうれしそうにさえ見えるのは、もしかしたら己の主の過去のことを聴けるかも知れないからだろうか。
「いや、その、あのお方は有名な方だから……」
 含んだ言い方で、リンが返したとき。不意に、その扉は放たれ奥から声が上がる。
「碌な噂ではなかろう。私はあそこから追放されたものなのだからな」
 背は、今の己より少し低いくらいだろうか。黙っていさえすれば優美とさえいえる、好青年である。目の前には、そんな者が立っていた。ただ、それに決定的に違和を画すのは、その目元の帯。本来なら、そこにこの性格に似合わない、黙っていれば優しげにさえ見える、特徴的な目があったことをリンは知っている。そう、目という一番特徴を示す部分を隠されてなお、リンはその顔に見覚えがあった。
「ユーロウ、どの……」
 搾り出すように。リンは、呟いた。そもそも『見覚えがある』どころか見間違えよう筈もない。
「おや、これは……。鈴を転がしたような声とはまさしくこれのことだな」
 そう、こういう、女性に向けた軽口さえも相変わらずで、笑みさえ漏れそうだ。
「お上手なお方だ。お初にお目にかかります。……この言い方は少々可笑しいか?」
 そういって、はにかんで見せるなどリンには相当珍しいことなのだが、残念ながら彼にはそれが見えない。
「いいや。常套句なのだからよかろう。奥にお掛けなさい。こんなところで立ち話もなんでしょう」
 懐かしさと、悔しさがリンの中にあふれた。


 彼に促され、腰を落ち着けたのは主人の趣味の反映された小奇麗な部屋だった。
「では改めて紹介しよう。私はユーロウと申すもの、宮中の閑職ののち、こちらに封ぜられて……そうだな、そろそろ半年になろうかな」
 丁寧に、歯切れよく彼は己のことを説明した。ただひとつ、嘘というよりは彼らしい悪戯に近いものが混じってはいたが。彼の元の役職は、方戌にさえ匹敵するような重要な役所だ。
「リン、と申します。残念ながら……今はそれ以上は言えない」
「構わないがね。さて……先ほどから黙りこくっているその御仁はやはりあいつか?」
 目線がどこをおっているかわからないが、大柄なものが眼前に立てば気配はするのだろう。やや位置は外れていたものの、リンの声のするあたりの隣、その少し上へと彼が話しかけたのがわかった。
「あいつ?」
 いぶかしむように、リンのほうがたずねた。
「その剣を携えた、赤い髪の大男……。さて、自分が思い当たるのはリャオチェンしかいないが」
 その笑みは、先ほど久方ぶりにリンが見慣れたものに似ていた。つまり、あの策士のような、含むところのある、この状況を楽しんでさえいるような笑み。だが。
「リャオチェン様をご存知なのですか!?」
 その問いに、真っ先に反応したのは、己が主と勘違いされたもの自身――リアンだった。思わず声を上げ、問う。リアンは、ユーロウのことを知らなかった。
(――違う!)
 そのリアンの声を聞き、すぐにユーロウは自分が思い違いをしていたことに気づいた。短い、しかも突発的な問いかけだったが、特徴はずいぶんとある。顔の判別が聞かないから、そう感じてしまうだけかもしれないが。その声は、ユーロウの思っていたよりやや高い位置から聞こえた。相当、背の高い証拠だろう。そして、それに見合うだけ声は低かった。たしかに、リャオチェンの声も低いがここまでやわらかくはないのだ。リャオチェンの場合はよく通る、澄んだ響く凛とした声……一言で片付けてしまえば、武人向きだし、それらしい声をしている。しかし、この目の前に対峙するものの場合は全く逆だ。どこかの牧場か何かにいそうな、いってみれば純朴そうな青年の声だ。
 そんなことをユーロウが考えていたとき。対峙する、もう一人の人物から声が上がった。透き通る、喩えるなら玻璃のような声は、指摘と訂正をいった。
「ユーロウ殿はどうやら勘違いをなさられていたようだな。こやつは、リャオチェン…殿との関わりが全くないわけではないが、私の僕のようなものだよ。名をリアンという。私がリンで、こやつが『涼』」
 そういって、彼の掌に己の字を示して見せる。なるほど、たしかにリンの字は造りは単純だが珍しい。そして、それと『涼』であれば韻のある意味もかぶる名だ。赤を纏う(無論、自分にはその色は見えないのだが)二人に、水の入った名がついているのが少し奇妙でもあり、面白くもあったので思わずユーロウは笑った。珍しい字でもあるし、意味自体もこの字は面白い。そしてこの者にそうと名付けること自体にも奇妙な可笑しさを感じたのだ。
「それでリンか。珍しい字だな。よい名だ。名付け主はよほどの知識人と見えるな」
 微笑みながらユーロウが言うと、リンは苦笑しながら返した。声に、そんな表情がついている気さえした。
「そうだな、たしかに知識だけなら人一倍持っていそうなものがつけおったからな」
 鈴を転がすような、硝子を散らばらせたようなその声を聞きながら、ユーロウは思う。質だけで言うのなら、この女性のほうがよほどリャオチェンと似た声を持っている、と。雰囲気や喋り方がよく似ているせいかもしれない。
「しいて言うなら……『リャオチェン』には私のほうが近かろうな」
 ユーロウがそんなことを考えていたことを知ってかしらずか、リンが漏らすように呟く。だが、そんな漏らすような呟きさえ彼は聞き逃さなかった。
「リン殿は彼の縁者か何かか? 敬称をつけるときに少し戸惑われたな」
 本当に、この男は相変わらずだ。いやなところで鋭い。そう思い、苦笑しながらリンは返す。
「それ以上を言えないと最初に申したはずだが……」
 と言いかけたところで、やはり漏らすようにリンは言った。それでも……それでもいいと思ってしまったから。
「兄上……」
「え?」
「私の、兄上なのだ」
 そう、それでもいい。嘘で己を固めてしまうことに、今は何の抵抗もない。半ば自棄でもある覚悟をリンは決めた。
 下手に隠し通しても、どうせ襤褸が出るのは眼に見えていること。嘘をついたところで、それは同じと言えば同じなのだが、とりあえずのところは、この伶人を納得させうることもできるだろうし、何よりも――
 そう、何よりも、旧友の前で自分は『リャオチェン』とは別人でいられる。
 つと、リアンのことを肘で突く。うまく、話を合わせろと指示したつもりだったが、彼はかえって対応に悩んで黙ってしまった。
「それで、この剣を授かった」
 いいながら腰のものを抜き、わざと剣をユーロウに渡す。扱えないことは知っていたし、光のない彼にものを『見せる』ためには、それを触らせるよりほかにない。
 つ、とその優美な指が剣柄と鞘に刻まれたその紋章を確認する。彼はそれの示す意味を知っている。
「ほう……先代はもっとお堅い方と思っておったが、まあ男などそんなものだな」
 ユーロウはかの家の家族構成を知っているから、だとすれば異父妹だ、といったことになる。しかしそれはつまり、そういう意味のことをいったことになるわけだった。優美に、かつ策略的に笑う口の端を見て、リンはそのことに気づいた。
 父親を貶めるような発言をしてしまったかと思うと、ひどく胸が痛む。が……それだけだ。それ以前に穿たれたこの胸の虚ろな風穴は、最早痛みなど感じない。ただただ、空っぽで苦しいだけだ。
「これで満足いただけたか?」
 話を切り上げるためにも、リンは言い返す。できれば――この場はなるべく早く去りたい。
「一応はな」
 そして、ユーロウがリンにその剣を返そうとしたところで、ふと思い出したように言う。
「そうそう、言い忘れていたがな、イェン。この鳥をまさに、朱雀という。都の南を戌ると言われる神獣だ。この剣は、宮中で言うところの南の方戌の剣にまず間違いはないな。ちなみに、その剣の持ち主の名が、リャオチェンというな」
 イェンは、言われてぴたりと動きを止める。
 この笑みは――あの策士の笑みと同質のものだ。リンは、瞬時にそう判断する。そして身構える。その次に、どのような恐ろしい言葉が続くかがわからない。
「残念ながら本人ではないようだが……、どうやらはリン殿は、おまえの父母兄弟の仇に連なるものに変わりはないようだな。それもかなり血が濃い」
 その場にいた、この言葉以外の発言者以外のみなが驚愕し、そして硬直した。ユーロウの口元は、相変わらず笑みを形作ったままだった。目の表情の変化がおえないのが、ひどく惜しい。
 「失礼いたします」と一言だけいって、イェンはその場を立ち去った。
 何故そこまで冷静なのだ――と、リンが気づいたのはしばらくした後だった。


「では、私のしてきたことは一体なんだったのだ!? 簒奪意外に他ならないではないか……っ!!」
 単純な、あまりにも単純なこと。戦をしている相手にだって、妻や子どもや兄弟は無論いる。意図的にさえ忘れていたことのような気がする。いまさらに気づかされて、悔しい。それでも、自分が方戌でいられている間だったら、そんなことにも耐えられたと思う。
「リン様……少し落ち着かれてはいかがですか?」
 その主を宥めようと僕は懸命である。そう、相変わらず彼は自分から離れようとしない。
 ユーロウの屋敷から、正直な話を言えばすぐに退出したかった。しかし、それではかえって無礼にあたろうという思いもある。それでも、やはり彼と対話したいという思いもある。仕方無しに、彼に薦められるままその家の一室を借りることにした。
「少しぐらい一人で落ち込ませてくれないか?」
 もとより、そのつもりで借りたのだ。おそらく彼とて、それを見越している。
「かつての南の方戍様のご活躍は、かの駿馬の働きがなければなかったと私は確信しています。それくらいの矜持はあってもよろしいでしょう?」
 だが、僕はそう声を掛けた。その心遣いが、うれしくて――苦しい。
「言うではないか」
「あなたの、僕ですから」
 ふ、とリンもため息とともに笑った。
「イェン、か……。私の昔の名と同じだな」
 当てる字は、もちろん違うけれど。それは幼少の自分に、自分の最も尊敬する人が自分に与えてくれた名だった。虚空を見据えて思い出そうとした回想は途絶えた。戸をたたく音とともに、不意に声が上がったのだ。
「すみません。よろしければお戻りになっていただけませんか?」
 そう、その声の主はまさしく――リンを敵とするはずの者。自分のかつての名と同じ響きを持つ者。
「私を切り捨ててくださってもよいのだぞ。私はそれだけの罰を受けねばならないし、その覚悟くらいはある」
 己の敵に殺されるのなら……それはそれで構わない。自分は、それだけのことをしてきた。
 あるいはもしかしたら、そのためだけにスーレンは自分を生かしたのかもしれない。
「私があなたを切り捨てたところで、死人は帰りません」
 きっぱりと、イェンはリンに言い放った。
「彼らの無念ははたせるやも知れぬぞ」
「それは、私には知りえないことです」
 ――強い。尊敬どころか畏怖してしまいそうな強さだ。剣を交えて勝てても、言葉や気迫に呑まれてしまうのではどうしようもない。そんなことをリンが考えている間、イェンは少し言いよどんで続けた。
「……私は、変わったつもりです。ユーロウ様とお会いして」
 なるほどと思う。たしかに奴にはそれだけの力がある。自分も彼のお陰で少しはまともな見聞が持てるようになったものだ。
「そうか」
 そう、リンは一言だけいって息をついた。……自分はどれだけ変われただろう? 飾り付けが少し変われば人間の価値など簡単に変わる。そういうものだ。そういうものだと――ずっと思い込んでいた。知らず知らずのうちに。あの頃と、どれだけ変われただろう?
「ユーロウ様があなた様に御用がおありだそうです。どうしてもあなた様でなくてはならない、と。それと……」
 きっぱりと用件を伝え、そこでイェンはまた言葉に詰まった。
「それと……?」
 促すように、リンはその言葉そのままに問うてみる。
「もしよろしければお連れの方には遠慮願いたい……と」
 真意はわかりかねる。もしかしたら、自分の正体に感づかれたのかもしれない。


「イェン。せっかく呼んできていただけたところ申し訳ないがおまえも席をはずしていて欲しい」
 見えないのだから意味はないのだが、それでも軽く会釈をしてイェンはその場を去った。たしかに彼の気配が消えた、とリンにも感じ取れるところで単刀直入に、ユーロウはリンにたずねた。実際のところユーロウは人の気配を感じるなどできぬから、ただイェンを信頼して時間を測っていただけなのだろうが。
「あなたは王宮の方か」
 その気迫と周囲の静寂に、首を振りそうになって、それが彼の前では無意味なことを悟る。ただ、彼はリンが逡巡したその沈黙を返答とみなしたようで、会話を切り出した。
「ならばひとつ、たずねたいことがあるのだが」
「何用か」
「……この書状は、たしかなものか」
 そういって、彼はひとつの書状をリンの前に差し出した。
 たしかに、とリンは思う。眼が見えぬのでは書の真偽は確かめられまい。ましてや――
「あなたの『その後』の処遇についてこと細やかに書かれている。火刑に科し、地方官吏に命じ、この地に封ずるとたしかに書かれている。
こちらは……その任命の書か。たしかにこの地の統治権をそなたにあるという保証の書だ」
 ましてや彼の身の振りを決めた、そして現在の自分の権を保証するものとあらば。しかし、そんなことではないだろう。問題なのは、その書に署名をし、印字をした人物についてだ――
「この文字も印章もたしかにスーレンのものだ」
 リンは言い放った。見覚えのある字だった。文字までもが、造りこそ美しいが冷酷さを感じさせるものだった。
「王后殿を呼び捨てか。いい度胸だな」
 ふ、とひとつユーロウは苦笑を漏らす。それが罠に獲物がかかった笑みなのだと、リンは気づかなかった。ただ、その言葉をそのままに受け止め、重々しい口調で答えただけだ。
「あれは……あれは私の大切なものを奪っていった敵(かたき)ゆえ」
 そう、きっぱりと。だが、途端、ユーロウの表情は厳しくなった。
「そう、か……」
 彼はその続きを紡ぐ。あたかも自分の唇さえもが重たくなってしまったかのように。
「リャオチェンは……死んだのか」
 言われて、リンは気づいた。
(しまった――!!)
 彼が自分に一人で来い、といった一番の理由はおそらくこれだ。その後の、リャオチェンの所存がいかなるものかの確認。
 たしかに。たしかにリャオチェンはもういない。そして、自分はもうそれとは違う存在である。けれど、永遠に失われてしまったとは思いたくない。たしかに自分は、その意識を継いでいるのだから。
「騙し打ちのようなまねをしてすまなかった」
 いえ、といったつもりだったがリンは結局、新たな沈黙を紡いだだけだった。不意に、彼はそんなリンに問うた。
「あなたは、何を目指しておられる」
 どう、答えたらいいのだろう。たどたどしい言葉でリンは紡いだ。
「……失ったものを、取り返すため。それが叶わぬのならば、見つけるため」
「何を」
 ユーロウが切り返す。本当に、あの策士と話しているようだ。されど、不思議に居心地は悪くない。ああ、と気づく。少しだけ、気が晴れる。答えはすでに用意されている。残念ながら、と苦笑混じりに切り出して、リンは答えた。
「それが何であるのかがわからないのです」
 ただ、その受け答えの最中、漠然とリンは思った。その答えは――もしかしたら『私自身』なのではないかと。
 ふ、とひとつ彼が笑った。なんだかその言葉に安堵もしたし、それでいて勇気も沸いた。不思議な、女性だ。
「これがなんの役に立つかはわからないが、ならば刻み付けておいて欲しい。……これが、かの王后のなさられたことだ、と」
 そういって、その目元に巻きつけられた布を、ほどく。呪が、とける。あるいは、かかる。どちらでもよい。どちらも本質的には同じこと。
「罪の処遇、火刑としては少々特殊といえば特殊な方法だがな」
 肉芽の盛り上がった組織がそこにある。つまり、ひどい火傷の痕だ。それが彼の眼を閉ざし、光を永久に奪っている。もしかしたら、眼球も抉り取られているのかもしれない。
「まあ、罪状にあるとおりのことをたしかに私はしたからな。王以外立ち入れない後宮に忍び込み、そこのものと深い関係を持ったことはたしかに事実だ。……ご気分を悪くされたか?」
「いいえ」
 リンは答える。今度はきちんと言葉になった。傷痕などいくらだって見慣れている。今度はリンが問う。
「しかし、王の御物に手を掛けられたのか?」
 くすり、と彼は笑った。
「なに、寝物語にこの国のいく末について、その心中をお気に入りの女に語ってでもいないかとな」
 その答え方が彼らしくて、またリンは破顔した。不意に、ユーロウがひとつ沈黙をつくり、自らそれを破る。
「スーレンは……手ごわい」
 ぽつり、と漏らす呟きのような独白。
「妖しげな術を使うからか?」
 リンの顔も、険しくなる。
「本当によくご存知で……。だが、それだけではないよ。彼女はひどく頭が切れる。普通ならこの場合極刑、もしくは宦刑だな。しかし彼女は私を殺さず生かした。されどたしかに私を生かさなかった。この意味がおわかりになるか?」
 ユーロウは、本来文官であった。されど、このものには何よりの才があった。すなわち――
「兵法が唱えられなくなるからか」
 そう、彼は――非常に優秀な、軍師の才を持つ者なのだ。であった、と過去形で話すほうが適切かもしれない。彼はスーレンのやり方をよしとせず、それに与することを厭い、そんな中で斯のような罪を起こしたのだ。
「本当に、よくご存知のようで」
 今度は、ユーロウが笑みを浮かべながらいった。見定められている――
 何故だか、リンはそうも思った。
「あなたの噂はよく聞いております故」
「そうですか。……ここへはしばらく逗留なさられるのか?」
 不意に、ユーロウにそう問われ、何故だか少々迷った。
「ああ、そうだな、今宵は宿も取っておるし、一泊はするが……いや、しばらくこの地にいてみてもよいかも知れんな」
 先を急ぐべきなのかもしれないのだが、何かが自分の足を萎えさせている。いや、そうではないのかもしれない。何か、もう漠然とした期待としかいいようのないものが自分の足を継ぎとめているような気もしている。今は、そのときではない。熟練の武人ゆえの勘がそう次げるのかもしれない。結局のところ、よくわからない。
「そうか。ではどうぞ、何かご入用のときはこちらへ知らせを下され。少なからず、お役には立とう」
「かたじけない」
 そう次げると、再び、ユーロウはその布を巻いた。そして、少々ばかり声の調子を変えて、リンに次げた。
「それと……」
「うん?」
 促したつもりだったが、彼はあえて話題を切り替えたようだった。
「いや、大したことではない。そなただけを呼んで失礼したな」
 たしかに。たしかにはったりを掛けるのであれば彼はいないほうが都合がいい。そう、彼がそこにいる、それだけで自分は冷静になれる、自分を少しだけ取り戻していられる。そのことにリンは気づいていた。しかし、目的はそれだけではない。
「だが、それも故あってのこと」
 といったとたん、ユーロウはリンのその手をひょい、と取った。白い手が絡まりあうその様は、ひどく絵になる。
「もしよろしければお泊りになっていってくださらないか? 無論、熱い夜をお約束いたそう」
(ああ、本当に変わっておらんな、この男は)
 半ば呆れながらリンは苦笑する。
「帰らせていただく。それに私はそんなに廉くはないぞ」
 といって、リンは彼の頬に平手打ちを浴びせた。
 一応手加減はしたつもりだったのだが、つい力を込めすぎたらしい。小気味良くさえある音が響いた。
 リンはそういうなり立ち去ったので気づかなかったが、その割に彼は苦笑していた。
(それと、嘘というものをつくときにはもっと堂々としなさい――)
 ユーロウは、少々痛む頬をさすりながら、そそくさとその場を去っていくリンの気配に対して呟いた。


  ――けれども。この嘘に、いったい何の価値がある。
  己を識るということが、なぜこんなにも困難なのだ。



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