この大地に足をつけ
 今は、歩みを進めてゆこう――


「あの男……まったく」
 訳がわからぬ。それでいて、そこが時折妙に面白い。
 部屋へ戻った後。荷物を纏め出立しようとしたところでリンは気づいた。
『足代にどうぞ――』
 そうかかれた紙片の添えられた財布には幾許かの金が入っていた。馬が一頭、買えるくらいの値段は十分にあった。
(……それでは、そうさせてもらおうではないか)
 胸中でひとつ毒づき。自分の神経がこんなに図太いものだったかとふと口の端を吊り上げる。
 そして、戸口で戸惑ったように立ちすくむ人影にリンは気づいた。自分が失ったものを思い起こさせる、全身赤い出で立ちをした長身の男。
「今は休んでおけ。今日はもう遅い」
 そういってさっさとリンは灯りを吹き消した。一方リアンはといえば、このあまりにも平静なる主の対応にやはり少々戸惑っていた。


「あの……よろしかったんですか? 鎧を質になんて入れてしまって」
 恐る恐る、というようにリアンは主に尋ねた。
「ああ……構わぬよ。どのみち、あんなものをつけていては剣もろくに振るえぬし、それに少々路銀には事欠きそうだからな。何せ今度は『二人分』だ。よい馬も買いたいしな。なまじ良い馬に乗ってしまうとろくな馬には乗れぬ」
 やさしく、微笑む。共に歩くものがいる。それだけで、不思議と心強くなるもの。
 ふ、とひとつ吐息を漏らす。
「不思議なものだな」
「え?」
「今までは言葉などいらなかった。それで互いをわかっていたつもりだったが――わからぬものだ」
 言葉というのは、時に大きな壁にさえなる、と。さらにリンは付け加えた。
 ――なんだろう。
 ずきりとする。胸の奥のほうが、ずきりとする。……最早動いていないはずの、この心の臓が。この身は――この身は、また人のものでもない。自分は、僵屍。ただの、生ける屍。術者に札で操られるようなことはない代わりに、この首からぶら下げた精霊石を外せば、その体はたちまち灰と化し、風に解けて消えてしまう。そんな存在。造られた、不自然な命。
「さて、それでは例の競走馬場にでもいってみるか」
 ひとつ、天にも向かうような大きな伸びをして。リンは、大股に、しかし緩やかに歩みを進めた。


 話は、この日の朝に遡る。宿屋――この場合は、兼用の食事場だが――というのは、非常に多くの情報が飛び交うところだ。ただし、ことの真偽を問題にしないのならば、ではあるが。
 少し遅めに起きだしたせいもあるのだろう、少々混み合う時間帯だったため、相席を余儀なくされた。この場合は都合が良い。恰幅の良い中年の男性は、この目立つ容姿と、あの時のことを覚えていたのだろう。リンの顔を見るなり、
「ああ、あんた一昨日の……」
 と、呟いた。
「その折は騒がせてしまってすまなかったな。場所を貸していただけたので手厚く葬っておいた」
 一呼吸、おく。間が欲しい。
「……そういう訳で、このあたりで馬を買えるようなところを知らぬか? なるべくいいものが欲しいのだが」
 少し困ったような、犠牲的な表情を意図的に作る。悲しいのだが、現実的にならなければいけない、そんな自分が憎い、そんな表情。少し、大袈裟なくらいがちょうど良い。
「馬か?」
 この男もこの男のほうで、一旦は問い返したものの、思い出したというような素振りを見せるよりは、どちらかといえば少々狙っていたような声で、告げた。
「この先に競走馬場がある。かなりいい馬ぞろいだぞ」
 そしてその詳しい場所を教えられ、そのあたりの地理を思い浮かべる。このあたりに地理に詳しいかと訊かれても、答えは甚だ疑問だが、多少の想像をつけるくらいは可能だ。目的の場所へは少々遠回りにはなるが、悪くはない。いや、むしろ今は寄り道でもして気分を落ち着けたほうがいい。
(行ってみるか……)
 ひとつ吐息をつく。なんだか、そんなことにさえ対処できてしまっている自分が虚しい。いや、感情は一旦おいておこう。悩むのは後ですればいい。今は少々先を急ぐべき時だ。時間がない。理由などないが、何故かそんな気がするのだ。  ともかくも、ならば、部屋においてきたリアンを呼んで、出立するとしよう。そうだ、旅の足代の上乗せに、あの重たくて仕方ない鎧も売り払ってしまおうか。
 もういちど。リンは吐息はついた。


「これは……確かにいい馬だ」
 その場へつくなり、ふと目に付いた一頭の馬。その瞳を見つめ、鼻の頭を撫ぜて。思わず、漏らすように呟いたリンの言葉に、反応したものがいた。
「あんた、女の割には見る目あるね」
 ふと、傍からあがる声。格好からして、この馬場の馬子の娘だろう。ここの主に断りを告げようとした矢先の出来事だ。
「大事な愛馬を一頭失ってしまってな」
 少しだけ、深刻そうな表情をまたしてみようと思って……やめた。この者には必要ない。この少女は、身の上話に同情するようなことはしない。そんな気がして、代わりにちょっとした思い出話のようなものをリンは語った。
「すべてをやれとはいわぬ。だが、すべてを他人任せにしてしまえ、ということならば尚いえぬ。剣を振るうことも大事だが、その手入れを行うこともまた大事。馬とてそれと同じこと。戦場に於いては、それは大事な自分の足になるもの、その手入れを馬子に任せきりにしてはならない。馬具も馬も、勿論己の剣も甲冑も、その状態くらいは見極められるようにあれ。……父上には、そう教えられた」
 言葉が自然に紡ぎだされる。そう、自分にとってはあの人は偉大な存在だった。だが。
「偉大な人だな」
 蓮っ葉な口調で返す少女に、
「だが幾月か前に亡くなられた。最低の武人の汚名を着せられたうえでな。それで、ここの主の方に会いたいのだが……ここの馬を一頭買いたくてな」
 と切り返す。「それはいったい」、と細かいことをいくつか聞きたくなったようだったが、その少女の望みは傍らからあがった声に断たれた。
「おや、リン殿」
 さてこの男には自分の名を告げていたか否か。覚えがないのだが、ならばどこかで耳に挟むなり誰かに聞くなりしたのだろう。あるいは自分が本当に忘れているだけかもしれない。
「あなたは……!」
 そこにいたのは、今朝方リンにここを勧めた当人の、あの恰幅の良い中年の男性だった。
「なんだ、叔父上殿の知り合いか?」
 傍らの少女から声があがって、リンは返した。
「いや、今朝方馬が欲しいといったらここを進めてくれたのがこの方なのだが……」
 思わず、言葉尻が詰まり気味になる。
「いや、すまない。実はあの時、少々用事であちらへ出かけていてな。例の騒ぎも知っとった。長旅をしてるようだったしそれに羽振りも……とこれは良いな、とにかく馬を一頭欲しがるかと思ってな」
 食わせ物な。もっとも、あの策士にくらぶれば随分と可愛いものだが。
「詳しい話を奥でお聞かせ願おう」
 こんなところで立ち話も、なんだ。


 だったら交渉用の小屋くらいしっかり片づけておけとも思ったが、そんなには使われていないのだろう。掃除が終わりきってないので、しばらくこちらを回ってくれといわれた。リアンを一旦先に向かわせてそれを手伝わせる。自分はもう少しここの馬たちを見定めておきたかったし、そんな姿を彼に見せるのも、酷な気がしたので。見せたくないものがあったからそういったのかもしれないが、そうリンが提案したときに彼は文字が読めぬから、といったらそれをすぐに受け入れた。
 そんな訳で、リンはここの馬たちを眺めてようとして、まだ先ほどの少女は傍らにいたことに気づく。あの男性のことを叔父上、と呼んでいたから馬子ではないようだが実際に馬の手入れはよくやっているようだ。手つきですぐわかる。
「名は?」
「名か? こいつの名前はピャオフォンっていってね。今は……ちょっと事情があって走れないんだけど、いい馬なんだよ」
 軽く、先ほどの馬の鼻の頭を撫ぜる。黒毛に、額に白の菱。飃風。まず思いついたのはその字。この容貌に随分とにあう。
「ピャオフォン? つむじ風のことか?」
「そ。たかが馬にやたら難しい字をつけてと皆にしかられる。あんたもそう思う?」
「いや、良い名だ。私の前の馬も少し変わった字をつけていた」
 ホーマー、すなわち、赫馬。赫、は紅く光り輝く意のことだ。もっとも、偶然知っていただけで自分も読み書きはさほど得意というほど得意ではないが。
 しかし……
「私は、そなたの名が知りたかったのだが」
 少し困ったように問いかけたところで、笑われた。


 リアンに呼ばれ、その小屋へ向かう。右のものを左にどけたような片づけだ、という気はしたが一応小奇麗にはなっていた。
「はは、恋文を溜め込んでいた部屋でな。懐かしくて読んでいたらすっかりかたづかなんだで。まさか客人に見せるわけにもいかんからの」
 用もないのに世間話から切り出すその態度に少し苛立って、リンは返した。
「私のほかに馬を買いたいというものはいなかったのか?」
「ああ、ここは馬借ではなく競馬場ですからな。ここのところ買い手がなかったものだから、つい物置に……。まあ、もっと立派なものも北にあったのだが……戦渦でな」
 あ、といいそうになるのも思わずこらえる。そうか、これが自分のしてきたことか。逆賊討伐のつもりでも、戦を起こせばその飛び火は民にやってくる。忘れていたわけではないが……いや、積極的に忘れようとしていたことは事実かもしれない。ひとつ、また吐息をつく。今度はわざとではなく、悟られないように。
 そして、二人は交渉を始めた。


 まただ。また、胸の奥がずきりとする。
 決心は、したはずなのに。喩えどんな姿になろうと、己の主についていくという決心は、したはずなのに。それなのに、妙に胸の奥が痛い。
 ――もしや、今の自分は主人にとって、ただの足手まといなのではないか?
 リアンは、ピャオフォンの前に立っていた。交渉の場からわざと払ってくれた主人の心遣いが、嬉しくもあり、重苦しい。
 走りたくても、走れない。同じ。ピャオフォンは今の自分と、同じ『におい』がするような気がした。
「……そう、走りたいんだ、あの人と……」
 自分も、同じだ。望めるのなら……それでも自分は、再びあのお方とともに。
「……あんたもなかなかいい目をしてるね」
 ふと、傍らから声があがる。先ほどの少女だった。
「不思議だな、あんた、なんか言葉とかいらなさそうな感じ。目とか見てると、凄く伝わる……こいつらみたい」
 ふ、とひとつやさしくリアンは笑った。
 それでも自分は『こちら側』でも『あちら側』でもないほうに立っているような気がして。


 しかし、この男性がどうも話を横道に逸らす世間話好きで、少々困る。
「あれを…どう思いますかな?」
 たとえばひとつ、間ができて。そして唐突にそう切り出す。
「あれ? ああ、スーニャ殿のことか?」
 あってみての所見は少々変わった娘だな、といったところだ。
 そして、名を聞いてみても少々変わった名だ、と思った。彼女の母親はこの男と姉弟のはずだから、父親がここより、さらに南か西の地方の出なのかも知れぬ。
「何分女っ気のない中で育ったモノでな」
 確かに女らしい態度や言葉遣いではない。しかし、そういうことをいわれると、どうしても戸惑ってしまう。後回しにしろと言い聞かせても……やはり、悩まないということは無理なのかもしれない。
 巧く切り返して話を本題に戻そうとしたが、男のほうが早かった。だが、それに意見を求められなかったことはありがたい。
「……あの馬も本当はいい馬なんだがな」
 ピャオフォンのことをいっているのだ、と思った。スーニャによく懐いているのは一目でわかる。
「なにか問題でも?」
 たしか、今は事情があって走れないといっていたか。いい馬のようだが、それなら諦めるより他にないのが残念だ。
「以前ちょっとした……そうさな、あんたの背くらいの高さの塀を飛び越えようとして失敗してな」
 それは……確かに少々高すぎる。騎手の腕がよければ話は別といっても、やはり馬というのは平地を走るものである。
「怪我をして走れない、ということか……。惜しいな」
「いや、怪我自体は治って走れるはずなのだが……どうにも走ろうとしないのだよ」
「走ろうとしない?」
 ほぼ鸚鵡返しのようにリンが問う。馬が走るのは自分が剣を振るうのと同じくらい、至極当然の理。
「うむ……もともとこいつはの父親……つまり私の義兄が乗ってたんだがな」
 待て。
「しかしスーニャ殿の父上は亡くなられたと」
 交渉話が幾度か雑談にそれて、そんな話になった。リンの身の上話も聞かされたが、答えられる部分は答えて、そうでない部分は適当にでっち上げたり、わざと深刻な、思いつめた風の顔をして黙って目を逸らすことで話を引き戻すことにした。しかしそうか、それならば。
「うむ、いかにもその時の事故でな。こいつの下敷きになって……胸の骨が押しつぶされてな、見てるほうがつらかったものだ」
「心中、お察しする」
 リンのその受け答えを淡々と進めていくようは、なにか妙な印象を受けさせたのだろう。
「お前さんも不思議な女だな」
 彼はそう切り返した。
「ん? そうか?」
 慣れ。もしかしたら、この世で最も恐ろしいものだ。こんなとんでもない事態さえ、受け入れてしまう。もっとも、人生というものはそんなものなのかもしれない。自分では、どうしようもないことを押し付けられて、しかしその『課題』を解決しないことには先に進むこともかなわぬ。
 ひとつ、かぶりを振ろうとして。それは流石にやめておく。感情を悟られるような真似はしたくない。
「いや……。どっか良いところのお嬢さんだからそうなるんだろう」
 ふと。自分の中でなにか妙なものが弾けた。悪戯心とか、悪知恵とか、一般にはそう呼ばれる、少し子供っぽいもの。
「やめた」
「は?」
「だから、その何とかという馬はやめた」
 しかし、と制する男を振り切り、リンは表情だけはにこりと笑って、
「そんなによい馬なのなら、私はピャオフォンに乗ってみたい」
 そういった。


 と、啖呵を切ってみたはいいが……少しまだ確かめたい。
 理由などない。多分ない。ただ、それでも……
「それでも、スーニャ殿には私と同じ『におい』のようなものを感じたのだ」
 対峙し、呟く。スーニャはまだリアンとともにいた。
「あの……?」
 戻ってきた主の突然のその告白に驚き、思わずリアンは問い返した。
「リアン」
 当人がいることは承知のうえで、それでもリアンとの話を進める。
「お前は己の失態で、かつての主を死なせてしまったとして、また走りたくなるものと思うか?」
「は? あ……いいえ」
 事情は、なんとなく飲み込めた。言葉があるというのは、妙に不便だ。もとより、この目の前の馬には自分と同じものを感じていたのだ。
「ちょっとあんた、なにいってんだ?」
 事情を飲み込めないのではなく、なにをいいたいかわかっているからこそ反発しているようにも見受けられる態度で、スーニャは割り込んだ。
 それでも、リンの対話……いや、独白は続く。
「私は私の失態で私の愛馬を失った。それも、本当に些細な失態が重大な結果を招いてのことだ。だが私はここに来ている。申し訳ないと思う気持ちが彼に対してないわけではない。むしろ切に感じている。だからこそここに来た」
「だけど」
 多分、彼女にとっても最早言葉などもどかしいだけなのだろう。
「馬ぐらい乗れるだろう。逃げるな。私は逃げずにここへ来た。それにピャオフォンは走ろうと思えば走れるし、そなたも手綱を握れる。私たちにはもう、それはできない」
 もうあの日々はかえらない。蛍火も生み出せない。零れた水が、杯には戻れないのと同じように。
「……」
 スーニャはうつむいて目を逸らすという否定の態度をあらわにする。場の沈黙を破ったのは、口を開きかけたリンではなく、その場に駆けつけたスーニャの叔父のほうだった。
「いきなり走り出されて、どうなさられた」
 少し急ぎ足で歩いただけのつもりだったが、腹といわず全身に脂肪を溜め込んだものにとっては、走っているに値する速さだったのだろう。……それでも、リンの四肢は長いのだ。
「あの、ピャオフォンに乗りたい、とは?」
 我を通す女二人と、黒馬と、そしてまるでそれと対話しているかのような男を交互に見渡し。彼はそう問う。
 また、リンの中でそれが弾けた。そう、せっかくだからよい演出が欲しい。
「ここではもう競馬はやっていないのか? 彼はよい馬なのだろう? ならばさぞかし、ここを走る姿は見栄えしそうだ……金はあるぞ?」
 こう切り出せば、かなりの金額を上乗せしてもいい、ということかと打算的な計算が彼の頭を掠めていることだろう。馬が走る走れないは無論重要だが、それはすなわち金が入るか否かに直結しているから。金さえ入れば騎手は誰だろうが馬はどんなものだろうがよい。リンは彼がそう思っていることを見抜いていた。
「三日後に」
「ちょうどよいな。ここの近くに宿はあるか?」
 前の宿だって、戻ろうと思えば戻れないこともない。だが道を逆戻りするのは厭だったし、それに、ここに迷惑料の金を少々落としていくほうが親切というものだろう。
「このご時世ですから、逆に賭け事に興じるものは多いのものです。……ここを、宿代わりにもできますが」
「頼もう」
「ちょっと、あんた! あたしはこいつに乗るとは一言も!!」
「私は彼に乗れなどと一言もいっていないが?」
 その返答は、スーニャがピャオフォンを欲していることの、ピャオフォンがスーニャを欲していることの、何よりの証明だった。
「馬ぐらい乗れるだろう。逃げるな。私は逃げずにここへ来た」
 リンは再びそう切り出した。必要だったのは、このきっかけ。嚆矢。法螺貝。それを鳴らせばよいだけのこと。


 そして。北へ向かう街道に、赤い人影が二つ。
「羨ましい、か? ピャオフォンが」
 リンは、リアンにそう問いただした。それでも、聞かずにはいられなかったのだ。
「……いえ」
 搾り出すようにそういったリアンに、返答代わりの独白をしようとして。しかしリンはそこで、言葉に詰まった。
「わたしは」
 名を奪われた、体を奪われた。すべてを失った。
(……いけない)
 紡ぎだしたい想いが渦巻いて、そこから先が巧く言葉にならないのだ。そして、ふと、なにかが引っかかる。脳裏に浮かんでは消え、を繰り返すのは、あの冷たい手、冷たい言葉。
『これで私の気持ちも少しはわかるだろう……?』
(……なんだ?)
 また、なにかが引っかかる。そして思い当たった。
 わたし『たち』……?
 何故だ。何故そう告げた。スーレン以外にもいるのか、私に対する敵対心を持つものが。それに、これが、すべてを失うということがそれか? スーレンは、いったいなにを味わったというのだ。いや、そもそも彼女は何者なのだ?
「リン様?」
 怪訝そうにリアンが訊ねる。普通なら、思いつめて言葉を失ったままになるか、さもなければ涙でも流しそうな場面で……リンは、笑ったのだ。少し、口の端を吊り上げる程度のものに過ぎなかったが、確かに笑ったのだ。
(……こんなに時間が経ってからそこに気づくとは、な)
 馬鹿なのだ。所詮、自分は馬鹿なのだ、剣を振るうくらいしか才はない。考えることは苦手なのだ。
(考えても結論など出ぬか……)
 それが結論。今、自分が見いだした結論。なんだか妙に、気が軽くなった気がする。
 スーレンの策にはめられて不利な戦いを強いられ、武人として汚名をそそがれて、その上その責任を果たすべく、首をはねられて処刑された父上。結局自分は、死に目にも亡骸にも遭えなかった。父上のような男として生き、父上の汚名を晴らせるような死に方をする。それを、理想としてきたつもりだったが。
 一瞬、父上が笑いかけてきたような気がした。
「わたしは、スーニャ殿に同情も羨望もせぬ。だが、それでも還らぬかの日々のことを懐かしくは思う」
 自恃。そんな言葉を体現するかのような、その笑みで。リアンはすべてを諒解できたような気がした。
「結局、彼を買い逃してしまいましたね……」
 だからこそ、少し冗談交じりに、やはり笑みをもってそう返した。
 その後、無事走れるようになったピャオフォンをスーニャが買わないでくれ、と引き止めたのだ。馬主のほうとしてはそれをやめたかったらしいが、リンは『金はある』といっただけだ、買うとはいっていない。もとより、そのつもりだったのだ。途中で気が変わった、といったあの時から。後になってみれば、あの策士の書置きも自分を試すためのものだったようにさえ感じる。この道を、自分で歩くかどうかを試す。
 ――結局二人は徒歩で発つことにしたのだ。
「仕方ないさ。一度いい馬に乗ってしまうと、なまじの馬に乗れなくて苦労するな。己の足で歩くより他なかろう。それに」
 それに、使わなかったぶん足代が増えた。打算的な計算がふと頭を掠める。それは口に出さずに、
「それならば、私はお前とともに歩いていけるだろう?」
 自分のものより二、三寸上にある彼の緋色の瞳に視線を遣り、そういって少し笑ってみせる。
「あの、リン様……」
 けれどリアンは、その態度に少し返答が困った。言葉自体は嬉しい。けれどもなんだか、己の主の様子がおかしい。そう、まるで……
 まるで、すべてを割り切っているような。何故、と問われてもわからないのに――それが少し、怖い。
 続けるべき言葉を探しあぐねるリアンを遮るように、リンがいう。
「空が……青いな」
 青く澄んだ空。何処までも何処までも青く澄んだ、まるで子供の落書の如く青一色の空。
 見上げれば、そんな空が頭上に広がっていた。




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