己を捨てるというのも、
時に必要なこと。
「屋敷の警固、か」
単純と言えばあまりに単純な仕事だが。
まあ、自分の力を生かすという意味ではいい仕事だ。
ことの発端は、数刻前。
もういちど、ユーロウに会おうとしたときのこと。珍しく彼の屋敷に客人が訪ねてきていて、談話中だった。仕方がないので折を見てまた訪ねようとしたところで、彼の方から自分を招きいれた。話の相手はどうもこの地方の官吏らしいが、その屋敷が盗賊に狙われているとのこと。そこでユーロウはもののついでのように彼はリンを紹介した。
「腕は経つでしょう。私の勘ではありますが」
渋っているとでも思われたのだろうか。否定するのもいやだし、挑発されたような気がして、ちょっと剣を振るって見せたら、あっさりと雇ってもらえた。
「けれど、けっこう退屈ですね……」
一緒に連れてこられたリアンがぽつりともらした。
「しょうがないだろう。いつ現れるのかも、現れるのかどうかもわからんのに」
所詮、情報など不確定なものばかりだ。金を惜しんでいるのかなんなのか知らないが、自分たちのほかには傭兵の類が見当たらない。盗賊たちも、なめられたものだ。
「立っているだけで金になるんだ。これほどいい仕事もあるまい?」
逗留しようにも旅立とうにも、先立つものが少々物寂しいことを、ユーロウはきちんと理解していたようだ。それに、盗賊といえども数が知れているだろう。自分の腕なら、それくらい切り抜けられる自信が、リンにはあった。その力は解放できずとも、再びこの剣がやっと自分のものになりだしてきた。
ですが、とリアンが続けようとした言葉は、リンの一瞬の真剣な表情にさえぎられる。
「……裏手が騒がしいな。しまった、そちらか!」
言うが早いか、彼女は走り出した。
走り出すと同時に、剣をつかえた。いる。思ったより、人数も多いが、しかしこれは……
奇妙な感じを覚えつつも、辿り着いた先に自分がこの任に失敗してしまったことがわかる。盗み出したものを、荷車で運び出そうとしている集団を見れば。
「待て!」
あわてて逃げ出す彼らを静止の声とともに追いかけようとした矢先、一人の少年が向かってきた。そう思うと同時に、持っていた棒で一撃を放って。これが、相手がリンでなかったら確実に入っていただろう。もしかすると、攻撃されたことにも気付かないほどに。それほどに精確で、そして早い。
なのに不思議と……美しい?
しかしその少年は一瞬何かに瞠目して、くるりと踵を返して走り出す。
そして、リン自身も驚愕した。一瞬、そう見えただけだったが間違いない。あれは。あの貌は。
「シェイファ様!」
思わず、リンは叫び、そしてそのあとを追いかけるように奔りだす。
屋敷の警護の仕事をたまわったことなど、とうに忘れていた。
どこをどう走っただろう。
だいぶ、裏道の方へと来てしまった。
しかし、あれだけの大荷物を抱えた集団においつけなかった、ということは、あの少年が劣り役でも買って出てくれたということだろうか。ならば、好都合だ。
あたりを見渡せば、ここはたしか廃屋街のあたりではないだろうか。なるほど、ここに隠れ住んで拠点としていたわけか。あえて迎え撃とうというわけならばよい根性だ。
そう思っていたところで不意に声を掛けられた。
「おまえ、俺に何の用だ」
その声に……リンは驚愕した。姿形だけでなく声までも。それは、シェイファにそっくりのものだったからだ。
しかし、どう返答しよう。まさか、この国の公主がこんなところで乞食のような暮らしをしているわけでもあるまいし。
「話が長くなるようなら、中に入れても構わん。しかし、物騒なものを持っているな。それは腰から外してこっちへ寄こせ」
どうやら、この少年がここでの首領格らしい。
「それはできない」
「ここでは俺が規則だ」
押し通そうとしても、あっさりとつきはねられる。良い――眼をしている。
「それでもできない。私は武人ゆえ剣を外すなど己自身の意志か己の主の命でしかできない」
どんなに、その姿かたちが似ていようとも。
私かに、公主としてではなく、その人個人への忠誠を誓っていようとも。
けれども、この少年は……自分が守ると決めた少女ではない。
「ならば、力ずくで獲物を奪うか追い返すか、ということになるぞ?」
少年が構える。獲物は棒。歓声があがる。
気付けば人だかりができていた。それを構成するものが、子どもたちばかりであることに違和感を覚える。未熟な社会、社会として成り立たない社会。だから、盗賊のような真似をして食べつなぐ。
(……ならば、私とこの者と、どちらが正しい? 官吏とこの子らと、どちらが正しい?)
不意に思った迷いが、剣を引き抜くのを遅らせる。
その隙を突いて、少年は素早く攻撃を仕掛ける。鋭い突き。当たればあばらが持っていかれてもおかしくなかろう。だが……
ふっ、とリンの口元が笑みの形に跳ね上がる。
――所詮、私にはこれしかできない。ならば。
リンは、剣の柄に手を掻けた。
少年が動き出す。
流れるような動き。なだらかで、美しい舞を見ているような気分になる。
確かに隙はない。よい動きをしている。
けれど。
リンが動きを少し緩める。当然のように、その隙を少年はつこうとしてくる。
それがリンの狙いだ。降り抜けない剣といえども――もう少し早く、リンは動ける。
「!」
突きの動作をかわされたことに少年は驚愕した。
確かにこの少年は強い。惜しいくらいに強い。けれど、何をどうあがいたって今のこの少年とリンとでは明らかな実力差がある。それを決定付けるのは――
「戦場に出たことのないものが、私に勝てるとは思わぬ」
キィン、という鋭い音とともに少年の獲物ははね飛ばされた。
その後に、静かにリンが呟く。
「あ……」
喉元に剣を突きつけられて、少年は動くに動けない。
「そこで、獲物を失っても一撃を入れようと、手足を傷つけられても相手の喉笛に咬みついてでも相手を倒してやろうと思うものだ。真に戦おうとするものは。それこそ、私がこんな無駄なおしゃべりをしている隙を突いて、な」
おもわず、少年はつぶやく。
「なぜ」
その言葉に続く問いは二つ用意されていた。
なぜ、自分をそこまでも追ってきたのか。そして……なぜ、手加減をしたのか。
「……知っている方に、よく似ていたので」
そのどちらにも、共通する答えはそれだった。
それを聞いて、彼は硬直する。
「残念だったな、俺はただの乞食の少年だ。こんなところに絹の衣を纏ってくるようなやつに知り合いはいない」
眼をそらして、少年は言う。この動作を、リンはよく知っている。自分が今までいろんな場面でして来たものであったから。
「ただの乞食の少年が、何故ロン老師の棒術を知っている!」
そう、あの動き、見覚えがある。たしか棒術で名をはせた有名な人物の。
「ではなぜ、おまえはそんなものを持ち歩いている?」
この剣をさして、その少年は言う。やはり、リンと対峙したときに、この剣のこの紋章に驚愕していたのか。
ユーロウのところでとっさについた嘘を、また用意する気にはなれなかった。
今度は、見破られそうな気がした。いや、彼も多分、それが嘘だということくらい見抜いてはいるだろう。
――ただ、真実に到達できないだけだ。それが、突拍子過ぎることであるために。
けれど、この少年には、それすら見破るような力さえある気がした。
「わたしの名はリンといいます。お察しのとおり、南の方戌の縁者」
だからわざとぼかして言った。真実を包み隠すように、己が誰であってもいいように。
「レイ。雷。前にも言われた事があるが、俺はそんなにこの国の公主様に似ているのかい?」
なんだ。わかっているのではないか。
「さあ? また、ここを訪ねにきてもよろしいか?」
「ここは乞食どもの巣窟だ。来るものは拒まないし、去るものを追わない。無用に振るわないというのなら、その剣は帯刀したままここに入ってきてもいい」
「かたじけない」
「しかし、おまえ、強いな。この国の方戌様にでもなれるんじゃないか?」
「ご冗談を」
道すがら。お互い眼を合わせて話す気にはなれなかった。
そんな騒ぎの後、リアンはすぐに追いついてきた。
レイを見て驚愕しなかったことが、リンには不思議だった。しかし、思い直して自分なりにその答えを見つける。そう感じた自分をばかばかしく思った。
歩を緩めて、リンは彼と並んで歩くことにした。レイの前では話したくなかった。
「おまえは……シェイファ様の舞を見たことがあるか?」
あの棒術は……まるで彼女の舞を見ているような心地よさがあった。
だから、思わず問いかけたくなった。
「そんな恐れおおいもの、わたしが見られたはずもないでしょう?」
優しい瞳で、リアンは笑う。
――私には、お前がいる。
それでいい、とリンは思った。
「それも……そうだな。すまなかった、妙なことをきいて」
「いいえ……」
やっぱり優しげな、けれどどこか寂寥感を含んだ瞳で、リアンは笑った。
実際、何故そんな行動を起こしたのか、リアンにもわからない。
ただ、それが主を苦しめている、それだけのことが何だか嫌だった。
そんな、利己的で稚拙な感情が、自分を動かした。
ユーロウにも、もちろん主にも内緒で出てきた。読み書きができれば書置きも残せただろうが、かえって主を心配させそうなので誰にも何も告げずに出てきた。
向かった先は、もちろんレイのいる場所だ。
孤村の主は、すぐに出てきて自分を迎え入れた。
「お前は……あのときの女の連れか。リアンだったか? 何の用だ」
「名前を覚えてくださってたんですね。光栄です。もし、叶うのならばあなたと二人きりで話がしたいと思って」
相手はいぶかしんでいる、それはわかった。
「もとよりそんなつもりもないですが、わたしは武器の類は持っていませんし、体術の類も知りません。それに……あなたも、あの人のことが気になっていた様子でしたから」
主のことを引き合いに出すのは申し訳ないと思ったけれど、それがいちばん効果的だとも思った。
「……わかった」
実際、レイはすぐに応じてくれた。