走って居た。
 草いきれの中。
 ――間に合わない。
 浮かぶ予感は、不吉なものであった。
 彼女譲りの、此の、力。
 其れが、むしろ、憎かった。
 決して外れる事の無い、直感が。
 其れでも――
 走って居た。
 むせ返るほどの。
 草いきれの中、『森』の匂いの中で。
 無我夢中で、走って居た。
 開け放たれた扉の音は。
 自分でも、驚いてしまうほどに大きくて。
 けれども、其の奥にあったものは。
 哀しい位に、自分が想った通りのもので。
 『彼女』は、笑って居た。
 瞳は、焦点定まらず虚空に向けられて居る。
 最早、目も見えぬと謂うのか。
 引き返す事は、もう出来ぬと謂うのか。
 彼女の前に浮かんだ光球は、不思議な輝きを放ち。
 同時に、確実に。
 彼女の『力』は、生命力すら含む総ての『力』は其処へと集約して居た。
「あなたは」
 紡ぎ出せた言葉は。
「貴女は大馬鹿者だ。我が母エルタン・ドゥナ・セーヴル」
 紡ぎ出せた言葉は、其れ位しかなかった。
「でしょうね。けれど……時間が、無いのです。我が子よ、貴方は其れを拒否する権利が在りますが……此の『力』を受け取って頂きたいのです」
 矢張り、虚空を見つめたまま。
 彼女は、謂った。
 わかりきって居る事だ。
 断る必要性など、何処にも無い。
 すっと、彼女の前へ歩み寄り。
 傅くように、跪く。
 『光』が。
 自分の身に、降り注ぐのを感じた。
 温かく。
 そして、同時にせつない。
「最期に何か言い残す事は?」
 自分でも。
 其の声が恐ろしく柔らかにやさしかった事に驚いた。
 始めて。
 感情、と謂うものを少し理解しかけた。
 彼女は、暫く押し黙って。
「ラレビルを……」
 そして、小さく言葉を紡ぎだす。
「ラレビル・フォ・メアードを『殺して』あげて……」
 願い。
 彼女が、始めて自分に向けた。
「わかりました。『其の時』が来るまで此の力、在りがたく使わせて頂きます」
 もう、息を引き取ったのだろうか。
 小さく。
 悲鳴のようにすら聴こえる声をあげて。
 彼女は、動かなくなる。
 安らかな笑みを浮かべて居るのが、せめてもの救いだった。
「最初で最後のバースデイ・プレゼントが此れなんて……母としては、貴方は最低です。と謂っても一日早いですが」
 だから。
 せめてもの、皮肉に。
 そう、謂ってやった。
 けれど。
 何故だろう、熱いものが己の内に溜まっていくのを感じた。
 其れが『哀しみ』だと謂う事に気付いたのは、もっとずっと時間が経ってからだった。
 此の時自分は、『涙』と謂うものの流し方を知らなかった。
 自分を包んでくれる森の匂いが。
 温かく、優しく。
 そして同時に切なく、儚いものであるように感じた。
 自分の内に在る、総ての想いを振り切って。
 立ち上がった。
 自分の『すべき事』をこなす為に。
 足取りは、やや勇み足だったが。
 何れは、自然なものになってゆくだろう。
 そう、『其の時』を迎える頃には。
 今の自分には、まだ刀身の長すぎる、其れでも己を主として認めてくれた、破壊術士の証でも在る黒金の剣を腰に佩き。
 今の自分には、まだ大きすぎる裾を引きずる長さの、しかし手放す事の出来ない彼女の形見でも在る、術者の証のローブを着て。
 歩き出した。ただひたすらに、東へと。
 剣の名は『エシル・ヌス』。
 自分の名は、此のときから同時に『エルタン・ドゥナ・セーヴル』。
 『運命と謂う名の逸話』は。
 其のもう一つの始まりは、確かに此処であった。
 いずれ。
 此の者は善流の国に辿り着き。
 己の名を『キョウ』と名乗る事になるだろう。



The Story of "destiny" ...sadame to iunano monogatari
THE・END
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