そして、物語は始まった……


 二胡が鳴いていた。木立の上には白金の櫛の如き月が掛り、灯の点いた室内では人は歌い、舞を踊り、杯を酌み交し合い、或いは賭博を打っていた。宛ら祭りの日の様な、いくら更けども火の絶えぬ夜も、ならず者達の集まるこの街ではさして珍しくは無い光景である。だが。緩やかに流れていた、この夜の時間が一瞬にして凍りついた。男たちは、いや、踊り子達ですら息を呑んで、そちらの方を振り向いた。
 とにかく――美しかった。
 そうとしか表現の仕様のない女が、この酒場の戸を開けて入ってきたのだ。囃したてる声さえ出ぬ間に、その女自身が場の沈黙を破った。
「すまぬが……馬を停める場所は此処の裏でよいのか?」
 鈴の鳴ったような声だった。赤銅の髪に、彫りの深い、整った顔立ち。その上に載った、凛、とした眼差し。女性の体には不釣合いな甲冑と大きな剣も、その瞳とは調和していた。
「ああ……はい」
「そうか。フォイェンを貰えるか? なければ火酒なら何でもよいのだが」
 店の主人も例に漏れず、彼女の行動に一瞬見とれ、戸惑いがちに返事を返す。女の方は注文を言うが早いか、空いていた勘定台の席に座った。歩く姿も美しい。背が高いので、尚更そう見えるのだ。七尺七寸(約177cm)、いや下手をすれば八尺(約185cm)はあるやも知れぬ。
 フォイェン、というのは度の強い火酒の一種である。
 女が席につくと、いかにも、といったゴロツキ風の男が下衆な声をかけてた。
「おいおいねーちゃん、フォイェンなんて強い酒、女にゃ無理だ。潰れっちまうぜ」
「はは、それじゃあ代わりに馬を走らせて、娼館街の宿にでも連れてってやればいい」
 八尺を雄に越す背と、達磨の様に、しかし無駄に全身に付いた筋肉。頭上の髪は、絶滅の危機に瀕する前に剃り上げてしまったらしい。後ろのもう一人は似たような背格好の、こちらは天に突き刺さるような髪をした者。このふたりが口語に、冗談交じりではあろうが、そんな事をいってきた。
 女は、二人の行動を無視した。店主の無言で差し出した酒を、こちらも無言で傾けただけだった。
「おーおー、つれないね、ねーちゃん、お酌してくれよ」
 しかしそのゴロツキ風の男たちの方も、尚しつこく声を掛け続けてくる。女の身形で、多少容貌に自信の有る者ならば、こういう所で酒を飲む時は苦労せねばならない。
(下衆な……)
 女は心中でそう呟いていた。時期が悪い。今は少しばかり腹の虫の居所が悪いのだ。ただでさえ大して旨くも感ぜられぬ酒が、益々不味くなるでは無いか。こんな奴ら、相手をすることさえ馬鹿馬鹿しいと思っていたが……我慢の限界だった。
 だが、立ち上がり店を出ようとしたまさにその時。その声は、挙がった。
「いるよね。こう謂う下品な人たちって」
 冷めた声だった。店の中は一瞬にして静まり返った。声の主は、今迄誰も目もくれ無かった店の片隅で、いつから現れたのかもよくわからぬ、一人で杯を傾けていた男のようだった。その話し振りと表情はあまり正義感の強い方には見受けられぬようだったが、女に救いの手を差し伸べようとしたことは確からしい。
「なん……だと? こら、もういっぺんいってみろ」
 無骨な荒くれ者の男と話したいならば、言葉と態度は選ばれねばならない。声を挙げたその男のその言動は、彼らの神経を逆撫でさせたに過ぎなかった。
「おや? 筋肉は達磨でも脳味噌は海綿かい?」
 ゴロツキ男二人の仲で何かが弾けた。だが、二人が動くより早く、その男は行動した。女が呑んでいた酒の杯を掴み取り、その中身を彼らの目に向けて浴びせたのだ。強い酒をそんな場所に掛けられたらどうなるか。答えは明白だろう。
「ほら、早く」
 その隙に、男は女の手をとって見せの外へ駆け出した。
ゴロツキ男二人はまだ目を抑えてうめいている。
 皆がその行動に一瞬あっけにとられ――
「あいつら、金払ってないぞ」
 客の中の一人が気づいて声を挙げた時には、二人の姿はもう、とうに消えていた。


「あの程度の者ども、私とてあしらえた! 何ゆえあんな真似をした!?」
 簡単である。男はそっけなく答えた。
「持ち合わせがなくてね。どうしようか迷ってた」
「な!」
 ただの食い逃げ――ここでは『飲み逃げ』というべきか――とは。しかも自分はそのダシにされたのか。
「降りろ」
 女は手綱を止めた。二人は馬に乗っていた。
「つれないねぇ……」
「ホーマーを休ませてやりたいだけだ」
 彼女の愛馬の名はホーマーと言うらしかった。赫馬、その名の通り夜の薄明かりの元でもそうと判る程に、赫く光輝く馬だった。
「いい馬だね、二人も乗せてこんな走りをしてくれて。正しく、駿馬というに相応しい。大切にしてあげなきゃね」
「おだてても何も出ぬ。ホーマーも長旅で疲れているのだ。折角休もうとした所をよくも邪魔してくれたな」
「わかったよ、それに関しては謝る。いい宿を知っているから紹介する」
 そして、男の言葉に従って二人は馬を下りて歩き続けた。


「あっれー? 何もしてくれないんじゃなかったの?」
 笑っている所から察するに、この男ハナから狙っていたらしい。男に紹介されたその宿(確かにその男の言うようかなり良い宿のようだった)に、辿り着いた後。そこに泊まる手続きをするのに、宿代は女がすべて出した。
「何もせぬとはいっておらぬ。恩を受けて、その借りを返さぬなどという恥知らずな真似はせぬ。持ち合わせがないということは、路銀も宿代もないのだろう? 私は多少の金なら持っている。だから代わりに払ってやるだけだ」
 多少の、とは言うが、幾ら良い宿な分客柄や雰囲気は上の方とは言え、こんな田舎の宿代に惜しげもなく金の粒を差し出すところを察するに、この女なかなかどうして持ち合わせはありそうである。しかも、金銭感覚には疎そうだ。案外、どこぞの箱入り娘などという落ちがついているかもしれない。
 先払い分の金を払い、手続きを終えると、すぐに部屋へ行って女は寝台に腰掛けた。疲れているのだ。
「けど、無用心だねぇ……普通、別な部屋を取らない?」
 その男の言葉に、女はすぐに反応した。
 刹那の後。未だ戸口に立っていたその男の喉元には、女の例の腰に佩いた大剣の切っ先が掠めていた。立ち上がり、駆け寄り、剣を抜き、斬りつける。その動作を、ほぼ一瞬でやってのけていた。しかもそれを寸止めにして、だ。そんな事をしたいなら、素早さの他に、かなりの判断力と集中力を要する。かなり剣の腕は立つようである。この分だと、もし仮に剣を奪われても体術でかなりのことはできるだろう。
 す、と女はその剣を再び鞘に収め。冷徹に言い放つ。
「相手の力量くらい一目見ればすぐ判る。第一、おまえの腕は私より細いではないか」
 この女がもしどこかの箱入り娘だったとして、ならば親はかなりの名うての武将だろう。
 男は――此奴も此奴で、微動だにしなかったのは余程間抜けなのか、肝が据わってるかのどちらかだ――くすり、と笑い。今度はこちらが寝台に腰掛けて言う。
「アツい人だね……。名前は何て言うの? 呼び名がなければ不便だろう」
「名を尋ねるときはそちらから名乗るのが礼儀だろう」
 女はもう一つの寝台に腰掛けて、不貞腐れ気味に返す。二人は互いの顔を、程好い距離で向かい合わせた。
「これは失礼。でもね、真の名前を言わない、己の顔を見せないっていうのはある種の戦略でもあるんだよ。世の中、大事なのは戦力より戦略だからね。覚えておいた方がいい。僕の名はリェンリー。あらゆる壁を超え、真実を見据える理知。即ち怜悧さ、即ち理性」
 女は、苦虫をかんだような顔をした。
「術者か」
「あからさまに厭そうな顔をするね。ダメだよ、ちゃんと表情操れるようにならなきゃ。特に、女の子の場合はね」
 女は鼻を鳴らした。
「術者などと気の置けるような者、誰が信ぜよというのだ」
 しかし、リェンリーという名らしい男は、女のその返答に笑った。しかも。
「いいねぇ、ちゃんとした言葉を使う」
「なに?」
「そうそう、こう謂う場合は『気の置ける』が正解。『気の置けない』とは本来心安らぐという意味だからね。居るんだよね、きちんとした言葉が使えない人達って」
 笑った内容はそんなことに対してだった。
「安心して。僕は術者じゃない。限りなく近しいかも知れないけど、けれど決して術者と同一の位地には相容れないものだから」
「意味をなさぬな。限りなく近しいのならば、それは同一ということではないか」
 リェンリーは矢張り、くすりと笑った。
「いいね。賢い人は好きだよ。君は聡い人だ。それで? 君の名は何と言うの? 君の言うよう、こちらは一応名乗ったのだから、そちらも答えるのが礼儀じゃない?」
 しかし、女のほうは少し戸惑っていた。
「私は……」
「都合がいいね。名前がないんだ」
 リェンリーにはそのことは判っていた。今、都の方では国妃の策略の絡んだ謀反の騒ぎで、大変な政変が起こっている。要するに、権力者の勢力図がガラリと塗り替えられているのだ。もしもこの女が身分の高い――いや、高かった武家の娘なら、なかなかどうして、己の名は言えるものではないだろう。突然の、独りでの出立ならば、もしかしたら、咄嗟の偽名さえ考えてないかも知れない。
 彼のそのような洞察には気づかず。女は、眉を顰めた。真実――実は彼の洞察自体は穴のある、実際と違うものだったが、言葉に乗ったこと自体は真実だ――を言い当てられた。しかも、都合がよいとはどういう事だ。
「言った筈だよ。僕は真実、ただそれだけを見据えるもの。それ以上でもないし、それ以下でもない。これは妖しの術とは違うよ。一種の洞察だ」
 くすり、と再びリェンリーは笑った。
「まぁ、どう取ってくれても構わないんだけどね。結局、最後には主観こそ世界を支配している訳だから。でもね、これはある意味ですばらしい事だから。名がないなんてことはね」
「なにゆえそんなことを言う」
 この男と話していると、疲れる。話が抽象的過ぎる。頭が痛くなる。そもそも寝所で交わされるような会話でない。
「何でって……簡単なことだよ。自らを他と識別する為の符号への決定権を、なぜ他に委ねられなければならないの? 己が己の好きな名を名乗って何が悪い、ってコト」
 相変わらず言葉は抽象的で難しかったが、話してる内容が全くわからないわけではない。妙に、説得力があった。
 女は少しだけ、はっとさせられ――
「私には、とりたてて名乗りたき名も無い」
 しかし正気に戻った刹那の後に、そう吐き棄てた。
「おや? じゃあ、なおさら都合がいいね。僕は僕が呼びたいように君のことを呼べる」
「私は―― !」
 そんなことを言いたかった訳ではない。しかし、女がそう言おうとすると、それより早く。
「リン、と言うのはどう?」
「なに?」
 リェンリーが提案をして来た。無論、その『名無しの女』の名についてだ。リェンリーは虚空を指でなぞって見せ、その字を書く。見覚えのない字だった。
「涼やかなるもの、聡きもの、清らなるものを記す字。先ずは、そうやってすぐに熱くなってしまう事から抑えたら? 君は美しいよ、それは誇ってもいいくらいのものだ。それならば、それを最大限に生かした方が好い。美女ってのはそう言うモノじゃない? とりわけ『傾国の美女』ってやつは、ね――」
「私は――」
 少しだけ。どきり、とさせられた。あの女のことを思い出したのだ。いったいなんなのだ、この男は。そんな思いのほうが強く沸いてきて、たった今、己に付けられたその名をわざわざ否定することさえ忘れてしまった。どうも、向こうの調子に持っていかれてしまう。
「おやすみなさい、リン。長旅で疲れているんでしょ? 早く寝たら?」
 言うが早いか、男は寝台に寝そべった。女もこの言葉にはしぶしぶ従った。確かに、身体中のあちこちが音を上げ始めていたのだ。おまけに彼の抽象的な話で頭の方も疲れ気味だ。灯を吹き消し、リン、彼女も寝台に寝そべった。
(術者など、誰が信じるものか――)
 彼女は胸中ではそう毒づいていた。
 そう、己からすべてを奪った、術者など。
 その夜、リンは夢を見なかった。


 しかし、目立つふたりである。宿を出、往来に出て歩けば、否応無く二人に人々の視線が集中する。
 リェンリーの髪や目の色は西域のものを思わせる淡いもので、しかしそこまで淡すぎもしない色で、髷も結わずに髪を短くしているし、纏っている衣服は異国の服のようでいて、実際にはこの辺りの物とかけ離れている物ではない。おまけにそれは、かろうじて男物のようには見受けられるが、女が着ても不自然ではないようなものだ。加えて、顔立ちにも地域や、性別の差ですら良くは出ていない。なんというか境目がないような感じなのだ。纏っている色も、喩えて言うなら虹色だった。すべてが混じっていて、それでいてその主張は互いを消さない。幾つか金属製の鎖のついたような飾りも腕に巻いたり腰から下げたりしているが、宗教的な道具にも取れれば、闇に紛れ人を傷付ける暗器にも取れる。つまり、彼自身の言うよう、あらゆる壁を超えたような存在なのだ。だからこそ、こちらの領域にまですぐに踏み込まれそうで近付いて欲しくない存在。
 対するリンは、こちらは逆に赤、それ一色が目に付いてくるのである。真直ぐで、直線的で、炎のような存在。赤銅の髪。纏っている物の布地もそれぞれすべて、赤。鎧でさえそうなのだ。大剣も、柄・鞘ともに赤で鳥のような飾りがついている。そして赤色の目立つ雄馬に跨っている。赤くないのはせいぜい瞳と肌の色くらいだ。加えて、ただでさえリンは人目を惹く美女だ。
 必然的に、二人は人目を引きながらも往来を歩いていた。
 しかし、無言でホーマーに乗っていたリンの動きがぴたり、と止まる。つと、脇のほうへ目をやって。
「それで……どこまで私についてくる気なのだ、お前は」
 リェンリーに対して冷ややかに言い放つ。リェンリーはさすがに馬には乗っていなかった。この雄馬が長旅で疲れていることなど、当に承知の上。
「僕の気の済むところまで」
 リンは、北へ向かっていた。リェンリーも自分も北へ向かうから、それならば途中まで共に行こうと提案してきたのだが……町をひとつふたつ過ぎても、この男は一向に自分から離れる気配が無い。朝の遅めの時間に出立したとはいえ、もう日は一日の内で一番高いところまで昇り始めてきている。
「しかし、随分急ぐね。疲れてるんならもう少し休んでいけばいいのに」
「私は急いでいるのだ」
「急いでいる、って……北へ行くみたいだけど、いったい何処へ行く気?」
「イーチウへだ」
「イーチウゥ? あそこは内乱が起こって、今かなり不安定な情勢の所だよ?」
 思わず、声をあげる。それは、例の政変のあった都の名。
女の子が一人でそんな処へ行くのはちょっと危ないんじゃない、と。口の端を吊り上げて言うリェンリーに、リンはさっと剣を抜き、昨夜と同じくリェンリーの喉元に刃を掠める。馬上からなので、攻撃力、寸止めの難しさともに昨夜より上だ。
「昨夜も見たろう? 剣には覚えがあってな。腕には少々自信があるぞ?」
 に、と笑うリンに。
「綺麗だね」
「なに?」
「流れるような身のこなしと太刀筋。そして、何よりこの――剣。まるで、炎の如き輝きを放っている」
 苦笑にさえ似てリェンリーは答えた。
「私の剣は……」
 少しだけ。俯き加減にリンが目を逸らす。
「炎の剣と呼ぶのにこれ以上ふさわしい剣は無いね。燎火、いや蛍火さえ放っているようだった」
 どきり、とした。まさか、この男何かを知っているのか。
「リェンリー……真実を見据える理知、か」
「よかろう。ならば、私に指し示してみろ。真実とはなんであるのかを―――」
 己は、多分今真実を見失ってしまっているから。
「僕はただの傍観者だよ? それ以上でもそれ以下でもない。宿代を立て替えてくれた事に御礼は言うけれど、ね」
「これだから術者は好かぬ」
「僕は術者ではないよ」
「ならば策士か」
 くすり、とリェンリーは笑った。
「かもね。ああ、そうそう、剣を振る時に力に頼りすぎるのはやめたほうがいい。君なら並大抵の……いや、無双を名乗るものにさえ勝るとも劣らない力があるけど、どう足掻いても、それでも体の構造上、女性は男より力技に向かないんだからね。それに」
「それに?」
「どんなに腕に自身があっても、こんな往来で剣を抜くのは控えた方がいいんじゃない?」
 リンはまだ刃を突きつける格好を続けている。確かに、もとより目立つ二人の周りには、人々が集まっていた。


   己を失った女と、己を棄てた男
   これがその二人の出会い……
   そして星はめぐり、運命の輪は回る……
   赤き焔をきしませながら



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