058.神々の笑い
――そして、執行人になりたかった魔女は姿を消した。
男は牢番をしていた。
ひりつくように喉が渇く。
牢番になって初めて任される仕事。
それは、この世で最も残酷な問いを囚人に投げかけること。
何度も、心の中でとなえた。
「……欲しいものはあるか?」
つまり虜囚は処刑されることが決まったということだ。
手の届きそうにない採光用の天窓から、申し訳程度に差し込む光は、囚われの魔女をまるで神々しい女神のようにさえ演出する。囚人には一見不釣り合いな、豪奢な腕輪がしゃらりと揺れて、余計にその演出を掻き立てる。
囚われの魔女は一瞬目を見開いて――といってもこの女は盲いているはずだが――氷のように冷たい声で、問い返す。
「何時だ」
何の時間が……と問うまでもない。
「……明日の、正午」
短く告げる。女は……笑っていた。
この世のすべてを憎み、愛し、諦めてしまった笑い。
「思ったより遅かったな。上の方が散々もめたのだろう」
魔女は聡い。
あの方の傍にいたなら、確かに聡くて美しくなければならない。そして――魔女は強い。
怯えを含む表情を、まるで見えているかのように魔女は見抜く。
「そう身構えずとも、わたしは丸腰だし、これをつけられては何もできまいよ」
しゃらりと両の手にはめられた腕輪を揺らす。
魔法具の一種で、魔力を封じ込めるもの。
それもいっとう効果が強い。ここまでしないと封じ込めない無尽蔵に近い魔力。
しかも、ふたつの属性を自在に操れるという。そして、剣の腕も立つ。こんな才能をもった存在が埋もれていたとは、驚愕以外の何物でもない。
「………」
牢番は何と答えてよいのかわからない。
「魔法というのは属性を持っていないと扱えない。そして、属性には特定の法則がある。相反する属性で、属性を抑え込むことができる。それがこの魔法具の理屈だ。単純だろう?」
腕輪をいじりながら、囚われの魔女は歌でも歌いそうな、踊りを踊り出しでもしそうな顔で、笑う。
「柘榴」
小さく告げる。何のことかわからずにいると、
「問いかけたのはお前だろう? 柘榴が食べたい」
そうだ、その問いの答えを聞くのが自分の役目だ。
「そんなものでいいのか……?」
出身こそ平民の出だが、功績としては貴人級の扱いがふさわしい。だから、ひとつ望みを聞ける。その立場にあれば刑を逃れること以外なら何でもできるというのに、魔女の望みはささやかなものだった。
「お前だろう、ときどき私の食事に果物を差し入れてくれたのは」
「!?」
確かに、その通りだ。『門番』には個人的に恩義がある。
せめて、と思い自分が配給役になるときには時折葡萄などを差し入れていた。
だが、声をかわしたこともない。
「足音だよ。少し足を引きずる癖があるだろう? 幼い時に『蟲』にでもやられたか?」
「!」
たしかに、その通りだ。
牢番は魔女が末恐ろしくなる。
「……掛け合ってみる。飛びきりの黒柘榴というわけにはいかないが、なるべくいいもの明日の朝食に用意する」
それでも、魔女に科せられた刑は変わらない。ここまで血にまみれた魔女の、贖罪の方法はひとつだけ。
「今日の夕飯までに。明日は食べられそうにないから」
魔女は願望を突きつける。
「あ、ああ。しかし……」
本当にその程度のことでいいのか。
「十分だ。魔女の『最後の晩餐』にこれほどふさわしいものはないだろう」
にぃ、と魔女は笑って見せる。
「あ?」
意味がわからない。魔女はため息をついて呆れた顔をする。
「おまえ、無学だな」
何故責められるのかがわからない。
そして、夜半、魔女の望み通りに高級な柘榴がひとつ差し入れられた。
しかし、男が翌朝見たものは―――
男を欺くかのような、
神々の笑い
に他ならなかった。
盲いた魔女は、堅牢なる監獄から、見事に鮮やかに、忽然と姿を消していた。