――彼はいったい、音を失ってからどうすごしてきたのだろう

 もともと読唇術は使えたからさほど困らなかったよ、などとはぐらかされたが、きっとそんな簡単に割り切れるわけでも、適応できるわけでもなかったと思う。
 あれで意外に食事に対する感謝を欠かさない奴だから、正直、たぶん結構つらい暮らしをしたこともあるんじゃないかとさえ思える。
 もっとも、生まれついて身についた金銭感覚は消えないようで、その金はいったいどうやって、その聞こえない耳と無駄に回る頭と口で沸いて出てくるほどに手に入れたのかと疑いたくなるときもある。
 突然楽しそうにメモを取ったり紙もペンもなければ地面に走り書きを書いてみたりしたときには、なんだか一瞬自分の知らなかった側面を垣間見たような気がして、でも私の声さえ届かない遠くに行ってしまったような気がして、
 ああ、自分はこんなにも彼のことを知らないのだ、と思い知る。
 ……知らないから知りたい?
 いや、ぜんぜん。
 そう思う気持ちがないわけじゃないけど、一緒にすごしている今の時間のほうが大切だし、そのために踏み込みたくない。
 ……踏み込まれたくないから。
 たぶん少しずつ、そう思っていてもどうあがいたって一緒にすごしているだけどそれは崩壊していって。
 極端な話わたしは知りすぎたし知らせすぎたとさえ現状で思う。
 というか、正直ここまで彼のことを考えてしまっている時点で重症だと思う。
 いかなる問題
 も、設問したのがわたし自身じゃ、答えなんて見つかりそうもないのに

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