なるべく人気の少ない席の、窓側の席を選んだらしい。列車はすでに走り出してから、だいぶ時間が経った。
 振動。風。煤のにおい。
 なんとなく悔しくて、また口をきいてやらなかった。続く無言に耐えかねたのか、それとも単なる気分転換のためか、彼は窓を開けた。
 汽車の走る音が、より鮮明に聞こえる。
「……変なにおいがする」
 どうせ見えていない窓の外に注意を向けたときに、不意になじみのないにおいが漂ってきた気がして思わず呟いてしまった。
「におい?」
 急にわたしが呟いたことに対する戸惑いというよりは、発言の内容自体に対する戸惑いだろうか。短い単語で彼は聞き返す。
 ……数少ない、彼と共有できる感覚を意味する言葉で。
「腐臭に近い気もするが、それとは明らかに違う」
 正直、あまりよい香りとは感じない。一瞬感じ取っただけだから、気のせいかもしれないけれど。
「……あ! いやでも……」
 一瞬、何かを思いついたようだ。わたしのいったことを確認するように、窓から身を乗り出す。
「うーん、潮のにおいがするような、しないような……」
「潮のにおい?」
 これが? あの『海』のにおいだというのか。
「海が比較的近くにあるにはあるんだ、だけどここまで届くかなあ?」
 たぶん、路線図と地図を一瞬にして重ね合わせて、しかもこの列車の移動速度や太陽の位置や風向き、そういったことまでも同時に頭の中に書き込まれているんだろう。
 まったく、どういう構造をしているんだか。そのくせ、他人の気持ちは驚くほど読めないときている。
「海」
 わたしにとって、未知のもの。未知のものでありながら、幻想と恐怖を同時に抱かせるもの。
「……降りてみる? 歩くとすれば、たぶん駅からの距離はだいぶあるけど」
 問いかけられる。どうせ、あてのない旅なんだから目的地なんてあってないに等しい。
「いや、いい」
 たしかに、それが未知のもののままであって欲しい気がしたし、もっと美しいものであって欲しい気もしたが、なぜ断ったかといえば特に明確な理由もない。
 結局わたしが永劫海を知らなかったように、あの灼熱の砂と風を、彼が知る由もない。
 彼が知らないわたしの記憶も、わたしが知らない彼の記憶も、共有できたこと自体が奇跡みたいなこの瞬間の中では
 世界の運命の価値
 にさえ、等しく思えるのに

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