――理由なんて要らない。

 考えるよりも早く体のほうが反応した。
 あっさりと振り返る。最初は早足。でも、それが走り出すのに変わる。
 喧騒さえ、どこか遠くに聞こえる。悲鳴と怒号。襲われている。
 なのに……血が、騒ぐ。
 不思議なまでに、体が軽い。まるで、魔法で作った風に乗っているみたいだ。
「――『メクラ』!」
 それでも思わず、足が止まりそうになった。半歩止まってたたらを踏む。
「ツァ、ル?」
 聞き覚えのある声の、聞きなれない言葉。それがわたしのことを指していると気づくまで数秒かかった。
「追うぞ! ぐずぐずするな!!」
 けれど、わたしに声をかけるなりそう言って走りだす。
 それは、あまりにツァルらしい対応で。
「――はい!」
 『隊長』とあとに続けそうになるのをぐっとこらえた。

 金物のなる音。悲鳴。見えないはずの、血飛沫。すでに騒ぎが起きていた。
「二人とも、元『門番』だ。加勢する。手負いだが、な」
 ツァルが声をかける。スーラを追われた人間たちの集まりに、丈夫な男などそういないのだろう。
 男の声と女の声、『蟲』に向かっていくのは半々だ。ただ、魔法の詠唱も聞こえなければ魔力の気配もしない。
 ……やっぱり、血が騒ぐ。少しだけ震えている。でも、これは恐ろしいのではなくって……
「相手の数と大きさは?」
 思わず問いかける。誰に問いかけたかさえもわからないのに。
 『門番』が『蟲』討伐をする上で大切なのはまず相手を知ること。どんな種類のどれくらいの大きさのが何匹いるのか。
「2匹。2匹とも『蠍』、馬一頭くらいの大きさ!」
 返ってきたのは少しハスキィな女の声。いや、この状況では声も枯れて当然か。
 『蟲』はえてして、殻を持った何がしかの生物に似ている。蠍。蜘蛛。甲虫。摂理の外にある、そのはずの生き物なのに。
 しかし『蠍』か、ならば。
「色は? 茶か? それとも青か?」
 問いかけようとしたことを、ツァルのほうが先に訪ねた。まだ姿が見えないのか。
「どっちも赤。渋みがかったのと、鮮やかなのと」
 『蟲』の種類によっては同じような見た目でも色によって成熟度や危険度が異なる。そう、たとえば『蠍』ならどんなに小柄でも青いやつは凶暴で、毒も一番強くて危険だというように。
「おい! いくら『門番』だからって蟲2匹も相手に――」
『雑魚だ』
 制止しようとしたその言葉に、ツァルとわたしとの声が唱和した。
 一瞬感じた震えはもう止まっている。
 そう、まるで……悦びを感じた瞬間のように。
「『風』よ――」
 そのことを肯定も否定もしたくなくて、ただ体が感じたとおりに行動した。魔法で作り出した風に乗る。
 不思議だ。
 ―――『見える』。
 まるで、風が教えてくれるみたいに。
 だがそれでも少しねらいが外れた。その背に乗るつもりが『蟲』の目の前に出てしまったようだ。小さすぎるせいだ。
「右!」
 簡潔なその叫びに反応し、ダガーを引き抜いて、あしらう。殺気とともに襲ってくる気配。手ごたえはあったが、足の先をせいぜい掠めた程度だろう。
 2匹いるのだったら、なおさらここで気を抜けない。
「もう一匹はこっちがやる」
 ツァルの声が聞こえる。多分、そういった瞬間にはもう、彼の愛用のカルドが『蟲』の厚い殻を突き破っていたのだろう。
 耳を裂かれそうになるいやな叫び声。『蟲』の悲鳴だ。
 ならば、集中して相手ができる。
 耳を澄ます。気配を察する。
 ――来る。
 呼吸を合わせて、風に乗って飛ぶ。よし、今度はその背に乗った。
 ダガーを構えなおす。
「『炎』よ!」
 火の術をまとわせて、そのまま突き刺す。
 再び、いやな叫び声。しかも、先ほどの比ではない大きさ。生きながら体液を焼き尽くされた『蟲』の断末魔の、叫び。
 ツァルのほうも片付けたのだろう。再び、その叫びが聞こえる。
「時間をかけすぎだ!」
「おまえもな! 相手が小さすぎる」
 そんな掛け合いさえできる。
 けれど、それほど小さな、さほど強くない相手だから何とかなったのだ。
 盲と隻腕じゃあ、役に立たない。少なくとも、多分もう『門番』はできない。改めて思い知らされた。
「メク、ラ?」
 わたしのことを呼びかけたその声に、はっと一気に熱が冷める。
 ロウのことを忘れていたことさえ忘れていた。不思議だ。
 なぜ、そうするのか
 理由なんて、要らない。
 いろいろなこと
 特にこの、剣を持って、魔法を使って蟲を狩るたとえばそんな動作は
 ただ単に、体がそう覚えてしまっているだけのこと

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