039.賢明に振る舞う
――ただ、それだけのことなのに。
「シュナ」
ただの、意味を成さない符号だった。
本当なら、今のわたしにはそれは何の意味も無い言葉のはずだった。なのに。
「――!」
なのに、ただそれだけの音の集合がわたしにあたえた衝撃はどれだけのものだったろう。
だめだ、反応しちゃいけない、わたしはただの『メクラ』にすぎない。いいや、そもそもそれが……わたしのことをさしているのだと、気づくことさえいけなかった。
「ツァ、ル……?」
なのに、わたしは反応してしまった。その音のするほうに、聞き覚えの有る声にその主の名を、思わず呼んでしまった。
「シュナ!? やっぱりシュナじゃないか!!」
驚愕。たしかにそうだ、わたしは本来ここにいていい人間じゃない。いや……そうか、彼にとっては……
「……っ、人違いだ、そんな人間わたしは知らない」
いまさら、否定したところで遅い。そんなことくらいわかっているけれど、
これ以上は何も告げずに、とりあえず逃げ出してしまおうと思った。嘘で取り繕うなんて器用なこと、わたしにはできない。そう思ったところで、この場にロウがいればいいのに、などという考えを一瞬思いついてしまった自分がいやになる。
けれど、いきなり走り出すなんて、しかもそんな雑念を抱きながらただその場から逃げ出そうとするなんて、それが自分にとってどれだけ危険なことかであるかなんて、その一瞬には忘れていた。
体に走る衝撃。とっさのことではあったが何とか受身は取れたようだ。掌が痛い。
何かにつまずいて転んでしまったらしい。こんなこと、普段のわたしならまずしないのに。
「シュナ、目が……!」
気づかれたらしい。というよりも、そうか、そういえばそうだ、ツァルはわたしがこうなったことも――そうだ、だからそれからあとのことも知らないし、知っているわけが無い。
そして、ならばなおさら関わるべきじゃない。そう、思ったのに。
立ち上がって、気休めに服のすそについたほこりを払っていたところに、覚えの有る感触。小さな手。クラムだ。
「クラム……。どうして」
「大丈夫か? ……そう『言って』いる」
深呼吸を、ひとつ。動揺した気持ちを落ち着けて、感覚を研ぎ澄ます。わたしは――『メクラ』。でも、音と気配で周囲の状態を把握することくらい、できる。
クラムがツァルに駆け寄っていく。軽快な足音。なんだかはしゃいでいる様子で、楽しそうだ。
「ああ、この子の養父をしているんだ」
なるほど、それでか。いくらかの謎が解けて、けれどかえってもっと疑問もわいてきて。だけど。
「ラクシュナ」
その名にはもう意味が無い。むしろ、かえって誰かを傷つける。わたしはわたしの過去ともう関わっちゃいけない。
「それはもう意味の無い言葉だ。お願いだ、わたしと関わらないでくれ。その子がいるならなおさらだ。詳しいことはいえないけれど、二人とも傷つけたくは無いから」
滅多に使わない、早口の言葉。
彼も、どう続けていいか迷ってしまったのだろう、訪れる沈黙。
「メクラ?」
それを打ち破ったのは、ロウだった。けれど、彼もこの状況を判断しかねたのか、続く言葉がそれ以降無かった。
「ロウ」
思わす彼の名を呼んで、けれどそのあとに続く言葉がわたしも出てこない。沈黙を打ち消したいのに、なにも言葉が出てこない。まるで聖典の奇跡のような救いがやってきたようにさえ、一瞬は感じたくせに。
歩み寄ってくる足音。わたしの目の前に立ち止まって、一瞬動きが止まってから彼はわたしの手をとった。
「……手を怪我している。大丈夫?」
たしかに、小さな擦り傷くらいはさっき転んだ弾みに作ってしまったかもしれない。
「べつにたいしたことじゃない」
手をとってくれるのはうれしいのと思うのに、そういってわたしはその手を振り払ってしまった。
「小さな怪我でも、あまり侮るのはよくないよ。向こうへ行って、手当てをしてきたら?」
ため息が口をついて出そうだった。ただ独りになって気持ちを落ち着けたかった、そのための口実がほしかった。それ知ってかしらずか知らないが、あっさり作り出してくれる。
「そうさせてもらう」
なのに、また、冷たく突き放してしまった。感謝しているはずなのに。
なぜだろう、どうしたって
彼の前では
賢明に振る舞う
ただ、それだけのことが難しい。