――そんなこと、言われたことなんて、ない。

 手話は苦手だ。
 この子にはそれしか『伝える』手段がないんだから、ぜいたくも言ってられないんだけど。
 盲と唖と聾の会話なんて考えただけで面倒くさくてばかばかしい。けれどそれでも伝えたいことがある、そして……ただ、会話を楽しみたい。
 じっとクラムのその手の動きをたどる。たどりながら音読する。
 それにしても、誰に教わったんだろう。
 手話は言語だ。その土地によって違う。『ネイティブ』の使うものには韻律さえあるらしい。
 けれど、この子の手話は僕にもわかる。元になる言語があって、そこに動きで意味を足しただけのもの。あくまで補助としてしか仕えない言語。しかも――ボクとメクラが話すのに使う言葉と同じ言語で。
 そう疑問に思ってじっとロウのことを見てみれば、ボクより濃い色の肌でもメクラよりはずっと薄い色。眼の色も、黒っぽい色じゃなくて綺麗なブルーグリーンだ。混血児なのかもしれない。
「あ、えっと……」
 そんなことをふと思って、読み取る反応が遅れる。似た意味を区別して、もう一度問いかける。こっちは普通に話せば伝わるようだから、それはありがたい。
 少し悩んでクラムのことを見てみれば、戸惑ったような目線と仕草で問いかける。
「うん、ゴメン、手話は苦手なんだ。多少はわかるんだけど……。もし、できそうだったら普通に話してみようとするだけでもいいよ」
 あいにく、読唇術のほうがよっぽどボクにとっては得意なようだ。たしかに、小さい頃からずっと訓練させられてきたから、当たり前かもしれない。方耳が聞こえないなんてハンディキャップが自分の子どもにあることを、父はひどく嫌っていたから。
 ――頭痛がする。
 ひどい耳鳴と眩暈の前兆に身構えて、けれどそれは二人の突然の行動であっさりと掻き消えた。
 いや、正確には……それともう一匹。
「……ネコか?」
 二人が振りかえって見つめる、そして見ようとする先に、一匹の仔猫がいた。多分、この猫が鳴き声でも発したんだろう。近づこうとしたけど、かえって逃げられそうな気がしてやめておいた。
「迷い込んできたみたい。まだ仔猫みたいだけど」
 不意に立ち上がって、メクラが歩き出した。多分、鳴き声のするほうへ。ボクから見れば、弱々しい小さな生命にしか見えないもののところへ。
「あぁ、声が高い。……お前、母親はどうした?」
 優しい表情と手の動き。きっとボクに向けてはそんなことはしてくれないだろうし期待もしてない。
「……大丈夫。大丈夫だ」
「   」
 一瞬おびえた顔をしたその仔猫は一度だけ鳴く仕草をしてからメクラのほうに擦り寄っていった。
 ……猫の鳴き声って、どんなだったっけ。
「可愛いな。喉を鳴らしている」
 ボクといるときよりも、はるかに活き活きとしたメクラの表情。戸惑っていたところで、僕の手を掴まれた。
「……ほら。これくらいはわかるだろう。喉の下をなでてやるといい。……違う、もっと優しくだ」
 無理やり触れさせられた手に伝わるゴロゴロとした振動。そういえば猫ってこんな仕草もするんだったっけ。言われるままに恐る恐る人差し指だけでなでてみたら、しかられた。けれど、不思議と言い返す気にはならなかった。そっとなで続けるうちに、仔猫のほうもボクを受け入れるようになでられるがままにしている。
 ……可愛い。たしかに、純粋にそう思う。
「いい顔をしている。多分、私が見たこともないような」
「え……?」
「見えずとも。わかる。動物と触れ合うというのはそう言うことだろうから」
 言葉を返すのも、なんとなく恥ずかしくて。どうしようか迷っていたところで、服のすそを引っ張られる。
「クラム? どうかした?」
 何かを言いたげだ。その唇の動きをたどってみれば、言いたいことは……
「"Nothing can trouble you"?」
 思わず、苦笑した。
 何事もあなたを悩ませることはできない
 そんな嬉しい言葉……今までにかけられたことなんて一度もなかった

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