――多分、悩むというのも人間の特権だから。

 結局、夜を明かす場所にここを選んで今に至る。
 どうせ、宿はそろそろ移ろうと思っていたからいいだろう。
 ただ、ここの人たちは西へ移動するつもりらしいから、そんなに長居もしないだろうけど。
 どうにも、欠伸が我慢できない。しようと思えば仮眠をとるくらいの時間はあったけれど、なんだか寝付けなかったのだ。
「ひとつ、聞いてもいいか?」
 どうしたものかなぁ、と思っていたところで彼女はやってきた。どうも、彼女もボクと同じくあまり眠れなかったらしい。ひどく眼が赤かった。いや、彼女の瞳の色はもともと赤いのだけれども。
「なあに?」
 多分、ひどく気の抜けた声が出たのだろう。答えた瞬間に、彼女は眉を顰めた。
「その……あのときの。あれは、どういう意味だ?」
 代名詞が多かったけれど、意図することはわかった。わかったけれど……どういう、と言われても、困る。
 正直に言えば僕にだって何故だかわからない。
 彼女のことが大切かと言われれば答えは勿論YESだ。
 けれど、彼女に恋愛感情を抱いていて、ましてや肉体関係を持ちたいかとかそんなことを問われればそういう気持ちにはまだ至っていない。
「あ、あれは、その……」
 かといって、理由がわからないでは答えになるわけもない。返答に困っていたところで、彼女は口を開いた。
「だったら」
 赤い眼。血の、いろ。多分、色素が異常だから起こる。摂理のその外にある、蟲たちのように。
「だったら、……示せ。その証を」
 その眼をじっくり覗き込んでみれば、それは、泣いて……いる?
 証を。
 そう言われてしまえば、行動せざるを得なくなる。
 肩を抱き寄せる。瞳を覗き込む。頬をひとつなぜる動作をくわえて、その顔を自分の元へ引き寄せる。
 何かが壊れてしまいそうな嫌な感じ。グラスを落として、砕け散る寸前の画像を見ているみたいだ。
「―――!」
 けれど。
 けれど、砕けた破片はボクを突き刺した。
「勘違いするなよ。盲ても虎は虎だ。飼いならそうとすれば、牙を剥かれるぞ?」
 ああ、そう。そうなのか。
 これが本来の彼女なんだ。
 つぅ、とひとすじ、背中を冷汗が伝うのを感じる。なんだ、ボクにもちゃんと動物的な、生命の危機を恐れる感情がちゃんとあるんじゃないか。
 ふっ、とひとつ彼女は笑って……ボクの喉元に突きつけたダガーをしまった。
「え……?」
 一瞬で見える世界が切り替わったことに驚いて、けれど何のことはない、僕が腰を抜かしてしまっただけだと気付いた。
 間抜けな様を繕う暇もなく、彼女はそのまま踵を返した。それはそれは綺麗な、踊り子のような動作で。
 ボクに一瞥をくれてやろうとすることもなく去ってしまうその背が、震えていることに気付いたけれど。何かをいったのかもしれないけれど、ボクにはそれが聞き取れないことくらい彼女は十分承知している。
「……ありがとう」
 それでも、ボクは呟いた。
 これくらいしかかける言葉が見当たらなかったから。それでもなぜか感謝の言葉を彼女に伝えたかったから。これが多分、ボクのためのボクの証だ。
 人はすぐ死んでしまうのに
 なぜこんなにも、証を求めて止まないんだろう。

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