035.先のことなど
――考えるまでもない
しかし、どうしたものだろう。
勢いにあかせて飛び出すだなんて、なんて馬鹿な真似をしたんだろう。
空を見上げる。
意味はない。どうせ見えていないんだから。
それでも風の匂いが変わったことに、日が暮れ始めているのがわかる。
野宿しようにも、できそうな場所なんてあっただろうか。かといって、引き返す気にもなれない。
胸元に手をやって、久しく忘れていたような祈りの言葉をそらんじる。まだ覚えていたのが不思議なくらいだ。
けれど、その言葉は途中で途切れた。
誰かがわたしを呼び止めた。声のない言葉で。あの時と同じように、わたしの服のすそをひっぱって。
「おまえは……もしかして、昼間の?」
背の高さも同じくらいだし、声を掛けてはこないし、何よりスーラの祈りの言葉で気付くくらいだ、たぶんそうなのだろう。
ああ、しまった。ロウから名前を聞くのを忘れていた。
大降りに、うなずく動作。これくらいならわかる。
「昼間はすまなかったな」
故郷の言葉で話しかけてみれば、今度は首を降って答える。……そうだ。
「なあ……おまえのところに、行かせてくれないか? ちょっと……泊まる場所が、なくてな」
そんなにいい場所ではないだろう。野宿かもしれない。でも、ここにとどまるよりはましだ。そう思って、訊ねる。
どうやらこれにもうなずいてくれたらしい。
『メクラ』と『ロウ』との会話も不便だが、唖との会話も不便極まりない。
「ありがとう」
便利なのは、わたしの声が届いていると言うことくらいか。
感謝の言葉を述べたところ、服のすそをつかんでいるままその子はあるきだした。
「大丈夫だ、普通に歩いて」
わたしを気遣っているのか、ずいぶんと遅い、時折立ち止まるような歩みに、そう声を掛けてしまう。
ロウはこんなことしないな、と思いながら。
ついた先は、スーラのキャンプらしかった。
なるほど、とは思うが……あたりの人に声を掛ける気には、あまりなれなかった。
蟲に襲われた人、戦争で家族をなくした人。離れざるを得なかった住み慣れた土地。どんな顔を、していると言うのだろう?
けれど、故郷のことを語る資格なんて、多分わたしには、ない。わたしは……あの場所から逃げてきたんだから。
目の前に何かが差し出される。水の入った皮袋だった。
「ありがとう」
誰がくれたのかわからなかったけれど、礼だけ言って受け取った。
それにしても……ずいぶんとあわただしいようだけど、どうしたのだろう? いろんな人間が出入りして、叫ぶような早口の声も多い。女性の声が少し多いようだけど。……怪我人がでた、とかでなければいいのだけど。
気にはなるけれど、関わるのは拒もう。そう思っていたのに、手を引かれて、そこへ連れて行かれた。
「あんたも手伝ってくれ!」
「わたしは……」
ああ、懐かしい故郷の言葉。けれど、断るための続ける言葉を思い浮かばなかった。ひとつ吐息をついて、あきらめて巻き込まれることにした。
「どうしたんだ?」
「産み月の女がいて、破水が始まっちまった。おまけに、ここには産婆がいないときた」
「それでもこういう場所に経験があるものがいないということはないだろう!」
わたしも、含めて。
それでも、命が新たに生まれるのは喜ばしいことだ。素直に手伝うことにした。
そうは言ったって、結局わたしにできたのは、その女性の手を握っていることくらいだけだったけれど。
そうして、わたし自身でどこか軽薄ささえ感じる励ましの声を掛け続けていたところに――彼は現れた。
「――メクラ!」
わたしは、行き先なんて告げなかったのに。そもそも行く当てなんてなかったのに。
なぜ、こちらの声の方が、故郷の言葉よりよっぽど懐かしくさえ感じるのだろう。
わたしをそう呼ぶのは、彼だけだ。そして、彼ならこのわたしのばかばかしい行動の行く末がわかったのだろうと素直に理解した。
「なんとかしろ、その無駄にデカい頭を使え!」
返答をするのも、彼の名を呼んでやるのも、ましてや涙を流して感動するのも悔しくて、そう叫んだ。彼が頼りなのは本当だったから。助けを、求めた。
彼の指示は的確で、産声が聞こえてきて女性が無事に出産したのがわかる。
自然に肩の力が抜け落ちた。
それにしても、あそこまで悩んでいたわたしはなんだったんだろう。
思い悩んでも、結局物事はなるようになっているらしい。わたしが悩んだところで日は昇って沈む。
先のことなど
考えるだけ馬鹿らしいことみたいだ。