――本当に?

「あの子はね」
 部屋に戻っても、しばらく口をきいてやるつもりなどなかった。
 どれくらい経ったんだろう、一時間はあっただろうか。
 ズルい。そんなことを切り出されたら……ふりかえざるを得なくなる。
「あの子は口がきけないんだ」
 いいや、彼の言葉であったら何であっても振り返ったのかもしれない。
 不謹慎なことを考えていたところに降りかかる、衝撃的な言葉。
「それはどういう」
 わたしの意見は途中でさえぎられた。いや、もともと意見する気もわたしにはなかったのかもしれない。
「さっきの、君に万華鏡を渡そうとした子。あの子の首、ちょうど喉元のあたりに……大きな傷があった。刃物で切った痕」
 だからどうした、とたずねる気にはなれなかった。
 それが何を意味するのか、想像がついたから。
「……子殺し」
 苦くてしょっぱい、精製していない岩塩を口に含んでしまったときのような感覚。
 あの子の親は……食べてゆくのに足りる暮らしを、していたのだろうか。
「とは、限らないだろう。また別な理由でついた傷かもしれないよ。それこそ、『蟲』に襲われた、とかさ」
 馬鹿馬鹿しい。
 なぜそこではぐらかそうとするのかがわからない。ロウはわたしがわかるだろうと思っているし、彼も多分わかっている。
「おまえは、わかっていっているだろう。傷跡とその由来の凶器を見誤るようなやつには思えん」
 どんな刃物で付けられたどんな傷跡か、くらいロウなら多分見抜けるのだろうから。
 スーラの人間の平均的な暮らしを、彼は知識としてなら知っているのだろうから。
「……人を殺すのは、大罪だ」
 声がかすれた。しかも上ずる。言葉を搾り出すのは、こんなに苦しいことだったっけ。けれど、彼には関係ない。
「勿論そういう宗教だってことはわかってるよ」
 いや、人でなくてもあらゆる生き物を殺すことが大罪。
 それでも、それでもわが子を手にかけなければならなかった理由。
「……人は、飢えたとき、どうする」
 わたし自身には何とかその自体は訪れなかった。……術が使えたから。
 けれど、身の回りには……いくつも、あった。
「そうだね……たしかに悲しいことかもしれないけれど……そういうことも、あるかもしれないね」
 それでも少し不自然な抑揚に、不思議と声にこもる悲哀。自分には聞こえてないくせに。
 砂漠の風も、虫に襲われたことも、明日の暮らしどころか今日の暮らしもままならないほどに飢えたことも乾いたこともないだろうくせに。
「――! 飢えたこともないやつが、偽善者ぶるな!!」
 自然と、手が出た。
 なんだか一緒にいたくなくて、部屋を出た。行くあてなんて、ないけれど。
 わざとらしいほど大げさに閉まるドアの音。
「あーあ、いっちゃった…」
 ドア越しに聞こえる、彼の独白。まるでわたしに聞かせるためのような。追ってくる気もないくせに。
 けれど……本当に、どうしよう?
 わたしは彼にとって
 必要不可欠
 な存在でなどけしてないし、ましてや中心ごとになんてなれるわけがないのに。

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