――わからないことも、あるものだ。

「常識とは」
 ちょっと、聞いて見たくなってきりだしてみた。
「常識とは?」
 彼女の唇は、ボクの発音したのとまったく同じ動きをする。
 おそらくそうしたのだろうけど、ここで語尾をあげたところで、ボクにたいしては質問の意味にはならないだろうに。
 何を聞きたい、と彼女が問う前に、質問のつづきをボクは続けた。
「何だと思う?」
 思わず口の端がにやりとつりあがってしまったことを自覚して、ああ、けれど相手には見えていないんだ、と気づく。
「難しいな……」
 ややうつむいて、彼女はつぶやいた。こうされると、どうも言葉が読み取りづらい。
 けれどその表情はむしろ……笑っている?
 そんなことに気づいたとき、彼女は顔をあげてきっぱりといった。
「ある時期の年齢までに身につけた偏見のコレクション」
 すらすらと、滑らかに。ボクはその言葉を読み取って……思わずひとつ、咽喉を鳴らした。
「妙な回答だったか?」
 たずねてこそいるが、彼女はむしろ笑っている。
「……いや、驚いてるんだ。どうして?」
 どうして、のその後に言葉を続けるべきか迷って、結局質問自体は省略してたずねる。
 Why?
 ボクの頭の中には、大きな疑問符が浮かんでいた。
 ボク自身がそういおうと思っていた回答を、彼女がしたからだ。
 それとも、この話を、前にしたことがあったろうか? いや、たぶんないはず。
「じつは師が同じことをいってな」
 たぶん、擬音語にするなら、くく、と音を立てて笑うような含み笑い。彼女にしては珍しい笑い方だ。
 といっても彼女が笑顔という表情を見せることじたい、珍しいのか。
「ますます会ってみたいよ、その人に」
 そのとき、それは半分は冗談だったけど、半分は本気だった。
「スーラにくる気があるのか?」
 こんどは口の端を吊り上げるような笑み。どちらかといえば彼女の笑みはこれが多い。
「まずもって、全然ないね」
 ボクはそうつぶやいて、肩をすくめる。 
 けれど――そう、このときは知る由もなかったけれど。
 ボクは、この後、彼女の師匠に会うことになる。
 常識とは
 えてして裏切られるものらしい。

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