――それから、ボクは『ロウ』になった。

 彼女が最後に見たものは、彼女たちの神様。
 ならば、ボクが最後に聞いた音はなんだったろう。
 たぶん……姉さんの、笑い声。
 ボクにはひとりの姉がいた。母は早くに死んでしまったから、肉親の中でいちばん身近な女性だったともいえる。
 ただ――
 表向き、ボクはどうやらあの家のひとり息子ということになっていたらしい。
 存在自体がすでになかったのだ、ボクの姉は。
 ほんとうに小さいころは、どうして姉がわざわざ座敷牢で生活せねばならないか、そのわけを知らなかった。
 彼女にも彼女自身の名はきっとあったはず。けれど、彼女はそれを語らなかった。語ることができなかった。
 だから――ボクは、彼女のことを『姉』と呼ぶか、さもなくば……
 idiot、とほかの者が呼んだようにしか呼べない。
 そう、ボクの姉は、白痴だった。精神遅滞者だったのだ。
 そのことを知ったのは、いつごろのことだったろう。
 外聞を気にして、姉の存在さえなかったことにしたことで、今まで以上に父を疎ましく、いやしい存在に思ったことだけはたしかだ。
 ボク自身、まともな会話の成立しないその姉の存在を、疎ましく思ったことがけしてないわけでない。
 ただ、ボクの奏でるバイオリンの音色に、嘘偽りない感想を、社交辞令でないそれを、言葉ではなく表情や全身で表現してくれる姉のことは好きだった。
 そう、そういえば、そのころはそれでも音楽家になりたいと本気で思っていたものだ。
 幼いころにかかった中耳炎の影響で、片耳はほとんど聞こえなかった。それでも、そう思ったのだ。
 父は事業をボクに継がせたいと思っていたから、相手にしてくれるはずもなかった。
 まあ、ボク自身あの父に音楽がわかった等とは到底思えない。
 けっこうあくどいこともやって、あの富を一代で築き上げた人だから、ということも無くはないが。父はとにかく厳しい人だった。
 父にとって気に入らない発言をしたときなど、子どものボク相手に本気で殴られたりしたことだって数え切れない。
 そしてその後は決まって雪のつもっているような屋敷の外に閉め出されるか……
 でなくば、姉さんのいる座敷牢に一緒に閉じ込められていた。
 そう……。そのとき、ボクは……それでも逃げた。
 父がいなくなったのを見計らって、鍵はかくしもっていた針金で開けた。
 姉さんは鎖から開放したところで、連れて逃げなければ意味がないことくらいわかっていたけれど。
 どうして、そこまでいやしい行動を自分が取れてしまったのだろう、と時折思う。
 何かが自分の内にたまっていって。その日、不意にあふれ出していた。
 夢中になっていたから、もう、覚えている聴覚情報は姉さんの笑い声だけだ。
 ただ、その夜からあと、ボクの耳は聞こえなくなった。
 たたかれたときにひどい力と勢いでたたかれたせいで内耳が損傷したのか、
 そのころは父の怒りをかってろくな食事にありつけていなかった時期だから栄養失調の影響なのか、
 それとも……ボク自身の精神状態が、そのときいちばんすさんでいたその影響だったりするのか、
 そこら辺はよくわからない。
 理由を考えたところで、今の事象に変わりはないのだから仕方ない。
 そう、ただ逃げ出したいと思っていただけなのに。あの夜、ボクは自分自身の手であの屋敷に火をつけた。
 たしかに屋敷自体は頑丈だったけど、中にいる父は泥酔状態だったし、姉はそんなだったから、二人とも逃げおおせたかどうかはわからない。
 逃げ出したかった。開放されたかった。ボクを縛る、すべてのものから。
 ただ、それだけのことのために……ボクはそんなことをした。
 だから……ボクはよくわかっている。
 ボク自身も含め、
 人はみな同じ
 『大莫迦(イディオット)』に過ぎないと。

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