025.生まれる瞬間と死ぬ瞬間
――彼女からの頼みの話をしてみよう。
「わたしのほんとうの名は」
そう会話の中で不意にきりだされたとき、ほんとうに驚いた。
思わずとめようとしたくらいだ。
もちろん、彼女がそれを望むなら、ボクは彼女を『メクラ』とそう呼ぶのはやめられる。
お互いをお互いの特性だけで呼び合うほうが、なんだか自然だったから。
あえていうなら『ノッポ』だの、『太っちょ』だの、『かぎばな』だのと呼び合うのと、そんなに大差はないような感じ。
けれど、彼女はこう続けた。つまり。
「わたしは、人よりそんなに長く生きられる自信がない」
と。
ああ、と一瞬ですべてを読みとって諒解する。ハッカ入りの冷たい氷水を飲み下したような感じ。
それは――正直に告白してしまえば、ボクも同感だった。
べつに、彼女がメクラだからというわけではなく、ああ、いや? ちょっとは関係してなくもないんだけど。
そう、彼女は、スーラの『門番』だった。
そして、『蟲』との戦いの中でたぶん視力を失った。
問題はそこだ。
まず、スーラというその土地自体。
スーラの砂は眼によくない。それはよくいわれているけれど、同時にすべての人体によくない。
一説には『蟲』が朽ちて、朽ちきったものが砂と化すとさえいわれてるほどだ。
だから、あれは死んだ砂。
当然、吸い込む呼吸器、気管支だの肺だのにだって悪影響がある。
だから覆い布をまくような習慣があるといったって、それはたかが知れている。
そこで育った作物や、それを食べてる家畜を食せば、消化器にだって悪影響があるかもしれない。
ただ……それだけがスーラの人々の平均寿命を縮めているのかといわれると、閉口してしまう部分もあるんだけど。
それから、『蟲』。
蟲の毒の中には……何年もかかって、じわじわ聞いてくるものがある。
もしかしたら毒というより、何か潜伏期の長い病原体を媒介しているのもいるのかもしれない。
まあ、蟲じたい、生態系のよくわかってない生き物たちばかりだから、断定はできないけれど。
そして、もうひとつ。いちばん気になるのは……
たぶん、彼女が失明したいちばんの原因。
そう、彼女は、スーラの『門番』だった。
そして、『蟲』との戦いの中でたぶん視力を失った。
だからたぶん、そんな蟲の毒か……、あるいはその戦闘中の負傷で、目に何某かの障害を負った。
そう考えるのが自然だろう。
といっても、見える範疇では大きな傷跡が彼女にあるわけじゃない。
たしかにその目の焦点はよく見れば定まっていないけれど、一見すれば見えないようにはとても見えない。
だとすればもっと高次の――つまり、感覚器でなく神経、それももしかしたら脳の障害。
科学が進めば医療も進む。ちょっとずつではあるけど、人体の構造と機能はその全貌をボクらの前に示しつつある。
その中で、いちばん厄介な器官になっているのが神経系、とくに脳だ。
人の思考や行動をつかさどる場所、科学的に見れば、どんな宗教でも出せなかった『心の在り処』の答え。
そんな場所に、傷害を負うことがどういうことか。
もしかしたら下手をすれば、生きてはいるけど息をしているだけのような状態になりうるのではないか。
そういった思考が――ボクの中であっという間にかけぬけていった。
それを見越したかのように、幾許かの『沈黙』ののち、彼女は口を開いた。
「それでも、死ぬときくらいは、生まれてきたときと同じ名で呼ばれたい」
と、彼女はそういった。
何故だろう。
泣きそうになった。
ボクはひとつため息をついて……
結局彼女と同じ『お願い』を彼女にしてしまった。
「正直に告白するとボクもそれに関しては自身がないな」
おまけに、ボクの場合もっと厄介なのは
「おまけにわたしと違って自殺しないと断定できるだけの材料がない」
そうなんだ。
「もっと正確にいうなら、自分で自分を壊してしまいたくなるときがある、といったほうがいいかな」
ボクはときおりボク自身が恐い。何にもない、空っぽの虚空がこの胸のうちには存在すると思ったのに。
それとも、だから?
他人を傷つけたくなる欲求と、自分を傷つけたくなる欲求と。対象が違うだけで、ボクはそんなにそれは大差のないものと思っている。
だから告白する。ボクが暴走し始めたとき、ボクは彼女にボクのホントの名前を読んで、いさめてほしい。
「ボクのほんとうの名は――」
生まれる瞬間と死ぬ瞬間
そのどちらかでしか、たぶんボクらはほんとうの名は呼び合えない。