010.共感できない
――間違いない。
「おまえは、自分以外の聾にあったことがあるのか?」
たいしたことではない。たいしたことではないけれど、すこし気になって、きいてみた。
夕食は早めにてみじかに済ませたから、そろそろここをどいて、部屋に戻ろうか。
なのに、こんな無駄話をしようと思うなんて、矛盾している。
「一応あるよ。君は?」
手の動きが止まる。驚きと……そう、戸惑い。
まあ、それでもわたしのすることだ。彼にとっても、なれたこと。
互いの過去を詮索するような発言は、たしかに今までなかったけれど。実のところを言えば、わたしにとってそれはどうでもよいことだから聞かなかっただけだ。
彼の場合は、どうだろう。てっきりわたしと同じと思っていたけれど。
「一応あるが。ただあれは、わたしの目が見えなくなる前のことだからな……」
スーラの砂は目によくない。その定説はあながち間違いでないらしい。
しかし、ほかの地域よりも多いとは言え、盲目のものばかりが暮らしているというわけではない。
そう、それでもわたしは……そのとき恐怖した。光のない世界というものに。
なのに今は、光が恐い。この眼はけして嘘をうつさない。余分なものを飛び込んでこないようにしない。
「生まれつきじゃないんだ」
言われる。
思い出す。砂嵐と、蟲の群れと、太陽と。
ひとつ首をふって、余計なほうへいく思考をふりはらう。
今は、必要ない。そして、過去のことは、思い出したくない。
「色の名前に詳しいだろう?」
それを認めるような発言として、言ってみた。これでもけっこう、絵心はあったほうなのだ。
「絵心があるようだしね、残念だ」
不意にわたしが思ったことを反復するように、言う。まったく、趣味の悪い奴だ。
――たぶん、彼の耳もきっと後天的なもの。でなくば、こんな明瞭な発音をできるわけもない。
ひとつ、吐息をついてわたしは言った。さしたる意味は、なかったのだけど。
「盲目で聾の高僧の中にはドゥラ描きもいたぞ」
ええと、もっと一般的な言葉は何だったっけ。
要は砂絵だ。だだっ広い部屋の床に糊を一切使わず作る。
「それはすごいな」
その土地から来た人に会えばどういう風がその場所に吹いていて、その風が砂をどんな色にするかがわかる、ということらしい。
おまけに、砂たち自身から語りかけてもくるそうだ。
あいにく、わたしはまだまだそんな域まで達していない。そして、正直それは、まゆつばものに感じてしまう。それさえも、修行の足りない証拠だろうか。
「聾の楽器弾きはいないのか?」
だから不意に思って、ロウにきいた。盲目のドゥラ描きがいるなら、聾の音楽家がいて何が悪い。
「きいたことないな……あ、でも作曲家ならいるかな?」
なんだ? 今の間は。考え込んでいる雰囲気じゃなかった。
何を。何を、彼は思い出していた?
たぶん、ふりはらうための動作。一般的には、首をふるのが賢い。
くやしい。
一連の動作が、微細な表情の変化が、結局のところわたしには何も見えてない。
そして、そんな沈黙の動作の後、彼は言った。
「ボクたちは『恐怖』だもの、しょうがないよ」
fear? わたしたちが?
「君は恐怖しなかったの? 光のない世界というものに、かつて」
それは……肯定せざるをえない。
なるほどな、と思ってしまう。彼がどういう言葉をそのあとつなげてほしかったのかは知らないけれど、結局のところそれを言いたいのだろうと思っていたことを言う。
「わたしたちは、おたがい、傷を舐めあっている?」
的中した。驚愕の沈黙。わたしだって、これくらいの芸当はできる。
「ある意味ではそんな部分を認めざるを得ないのかな」
そして彼はきっと回答を求めている。
「言ったはずだ。人は一人では生きてはゆけない」
手本どおりの回答でもいい。
「だから誰かとこうして一緒にいる、か」
たぶん、確認したかっただけ。けれど。けれど、何のために?
「……それがわたしでは不服か?」
気になってしまって、思わずたずねた。気まずい空気。
「まさか」
打ち払うように、彼は強く言う。
こんなことを、わたしに言わせたかったわけではないらしい。
では、何を?
そう思った瞬間、彼のほうから話しかける。
「メクラの……君の家族は、どうした?」
「どうした、とは?」
「君の、その目を知ったとき」
「あまりきかないでほしいものだが……」
正直なことを言えば、言いたくない。
「ごめん」
「いちおう……それでも、絆は何とかつながっていたといっておこう」
大嘘だ。彼らはわたしを切り捨てようとしたし、わたしは彼らを切り捨てた。
……お互いが、生き延びるために。
「家族の絆は、そんなにいいもの?」
「わからない」
ああ、嘘をついている自分はこんなに卑しい。いったいどんな顔をいま自分はしている?
もしや彼に悟られてはいまいか?
不安ばかりがよぎるが、彼はあまりに痛い言葉をわたしに投げかけた。
おそらく……彼自身の実感として。
「家族でさえもボクらのことをほんとうに分かり合えたりはしないものさ」
たしかに。たしかに、それはそのとおり。
もうやめにしたい。きりだしたのは自分だけど、もう部屋に戻ってまた意味もなく目をつむって眠るか、さもなくば、
「いっそ、乾杯でもしようか?」
思い切って言ってみた。
そう。ならばいっそ、ふり切りたい。……逃げようとする、わたし自身を。
「君は飲めるの?」
「一応な。おまえこそ平気なのか?」
そう言えばいくつくらいなんだろう。わたしよりは一応背が高いし、それなりの歳には達してはいるのだろうけど。
まだ声が細くて高い印象を受けるので、つい子ども扱いさえしたくなってしまう。
「まあ、おおっぴらに飲めるほどの歳かと聞かれると口を噤んでしまうけどね」
けど、そういう意味で言ったんじゃなくって、と彼はさらに付け加える。
ああ、そういうことか。
「スーラの神はべつに飲酒は禁止しておらんぞ」
名目上だけのことで、限定符のつき方は、寺院での教え方によって少々異なるが、結局のところは禁じていない。
ちなみに、とりわけ商談の席のそれをならば、すすめるような発言さえあるほどだ。
「それで何に乾杯するんだい?」
ふぅん、とひとつつぶやいた後、彼はそう言った。
決まっている。
「共感できないわたしたちに」
悪くない、と彼は言った。そして、言う。わかりきっている言葉を。
「人はみな共感なんてできないんだよ。すべては一時的なもの」
ぐ、とこらえる。
たしかにそれは、痛いほどわかっている。
互いの痛みでさえ、分かり合ったような気になっているだけ、自分の痛みがたいしたものでないと確認したいだけ。
「ああ、そう言うものだ」
吐き捨てる。
そう、やっぱりそれでも。わたしはそんなことに、
共感できない。