――畏れた。

「理解できないのは嬉しいこと、だ」
 唐突に。ほんとうに唐突に、彼は言った。
「それが……どうした?」
「いや。ふと思ってね」
 昼下がり。
 結局宿屋に戻り、その食堂で、甘いものをいただくことにした。
 まあ、お芝居を見る余裕などはじつはないけれど、このくらいの贅沢ならばまだできる。
「う〜ん、そうだね、まずボクはめくらの世界がどんなかを知らない」
 いつもとイントネーションが違う。わたしの名でなく、一般的な事象をさす言葉を選んだ。
 聞こえない耳で、その微細な違いが自分自身にはわかっているわけもない。
「それから、砂漠の暑さや夜の寒さがどんなかも知らないし、魔法についてもよく知らない。まあ、蟲の恐さなら多少はわかるけど」
 蟲、と表現するが実際には魔物のことだ。
 つまりは、大きな蠍だの、蜘蛛だのとか。
 わたしは……かつてそれと戦うことを生業にしていた。まあ、今も大差はないんだけれど。
「いっぽうでもっと嬉しい限りなのは」
 きりだす。きっと、対比的なことを言う。
「君が音のない世界がどんなものかを知らないし、もうひとつ、科学をそこまで理解できないこと」
「わるかったな」
 やっぱりだ。ふてくされて、わたしは言った。
「いや。むしろ幸運なんじゃないかな? これでボクに対してえんえん物理学の議論をするとかなったら、かなり気が滅入るもの」
 ん、と思う。
「物理学?」
 physics。たしかに、そういった。
「そうだけど、どうかした?」
「師の専門だ」
 なんだ、惜しいな。ならば、彼に合わせてみたいものだ。
「え? ああ、そうか、師匠って言ったって魔法や剣術の師匠とは限らないのか」
 ひとつまた彼は己の先入観を振り払えたようだ。
「彼はむしろ科学者の範疇にはいる人だ。まあ、本人の言によれば、だがな」
 けれど、彼はすごく謙虚な人でもあった。何せ、己の名を称するときに、あまりにありふれたものの名を冠した。
「師も似たようなことを言っていたぞ。伴侶をもらうならば、自分の専門を全くわからない人にしろ、とな」
「違いない」
 わたしたちはたしかに四六時中一緒にいるけれど、旅の仲間という意識がそれを可能にさせている。配偶者となったら話は別なんだろう。
 まあ、といっても、この二人は一番そんな話とは程遠いところにいるつもりなのだけど。
 そして、ふ、と思いついた。
「いっそ二人とも無音の闇に落ちられれば、同じものを見聞きできるか?」
 それは、あまりに逆説的で、あまりに刹那的で、あまりに短絡的な思考。
 ああ、わたしにもある。こういう部分は。もしかしたら、表面に現れづらいだけで彼より強い。
「さぁね。そもそもの特性が違うもの。それに……まあ、一言で言えば、恐ろしい」
「音と光を失って、なお偉人と称されるものもいないわけではなかろう」
 実際、わたしの土地にはそういった僧がたくさんいた。そもそもわたしの土地には、目を患うものが多い。
「まあ、それはそうだけど……。かれらはどうやってその欠いた能力を補う?」
「人の手を借りて、だな」
 しいて言うなら指点字を使ったが、音が聞こえない以上はわたしのように、あらゆる音の飛んでくる方向からものの位置や動作を割り出すことは不可能だし、目が見えないならば、彼のように唇の動きで相手の言ってることを『ききとる』ことも不可能だ。
「もしかしたら、それを一番恐れているのかな」
 もちろん、わたしたちはもとより人の力なしでは生きてなどいけない存在だけれども。
 それでも、できうる限りは自分たちの問題は自分たちで処理したいのだ。
「しかし、いちにち、眼をつむって過ごすなどおまえにはまずできないだろうな」
「いちにちはもしかしたら無理かもしれないけど、しばらくは大丈夫だろう?」
 ちょっと、むっとしたようだ。
 わたしが何年もかけてやっとすこしだけわかったそれを、にわかにわかられても困る。
「しばらくって?」
「そうだなぁ、1時間ぐらいはできるんじゃないの?」
「ならば早速試してみたらどうだ?」
 笑いながら、問いかけてみたが。彼のほうが一枚上手だった。
「人間は道具ってモノを使う生き物だ、ってことくらい知ってるだろう?」
 かなり、嬉しそうな声。わたしの手をとって、『それ』を差し出す。
 触ってみる。意外にやわらかい。ゴムか何かでできている。小さくて、先が細くて後ろの部分が太い。ちょうど、円錐の上の部分を切り取った形。もちろん色は不明である。そんなものがふたつ、わたしの手の上に乗せられた。
「これは……耳栓か?」
「あたり」
 何故こんなものを用意している、と思ったが、そうか、そういうことか。
 そのことを思いついた時点ですでに彼が用意していたのだろう。
 一見わたしが自主的に発した言葉のようで、じつは彼から引き出されたに過ぎなかったというわけか。
 まあ、それもよい。
「無音の闇を体験してみるといい」
 早速試した。
 部屋に戻るのに、いつもの倍以上、時間がかかった。

 肩をたたかれる。
 そうか、こんなことでしか人間の距離に気づけない。
 彼は香水の類を使っていたろうか。たしか、否のはずだ。
 なるほど、嗅覚の届く範囲でやっと認知可能というわけか。
 わたしと一緒に彼はこの部屋に戻ってきたのか否か、それさえよくわからない。
 耳栓をはずそうかどうか迷って、そう思っている隙に彼の手がわたしに近づく。
 こんなことでさえ、一瞬恐ろしい。
「1時間どころか、5分でギヴ・アップしちゃったよ」
 結局それを渡した彼自身の手によって、わたしの聴力を元の状態に戻す。まだすこし、耳がおかしい。
 こんなことが言いたいがために、か。
 たぶん、肩をすくめるような動作でもして見せたのだろう。
「こんどはアイ・マスクでも使ってみるか?」
 軽い冗談のつもりで、言ってみる。
「悪くない。いや、悪すぎる冗談かな?」
 実際彼も、苦心して……恐れたのだろう。まったく、馬鹿なことを思いついたものだ。
「部屋にはわたしのほうが先についたのか?」
 ほら、こんなことさえわからない。
「みたいだね。階段自体は何とかのぼれたんだけど、部屋にはいる前のところにすこし段差があるだろう? あそこでつまづいて、思わず目を開けた」
「ああ、そういえば、何かが倒れたような振動があった」
 どうしようか、迷ったのだけど。何がおきているかなど、認識できないし情報が少なすぎて、予測もつかない。
 ただ、すこし意外だったのは。
「しかし、全く聞こえなくなるわけではないんだな」
 音がなくなるのではなく、むしろ変質するといったほうが近かった。
「ボクもそうだよ、たぶんその感じをもう一段悪くした感じ」
 つんぼにも、まあ、いろんな状態があるってことか。
「ああ、耳栓の使い心地はけっこうよかった。寝るときに使わせてもらおう」
 彼のいる方向に向けてそれを放り投げる。
 なんとなく、悔しそうな彼の表情が眼に浮かぶ。
 それは音と光の特性の違いと、それを受容する器官の違いによって生じた差に過ぎないのだろうけれど。
 それでも……まあ、わたしに負かされたことをせいぜい悔しがっているがいいさ。
 実際わたしも、無音の闇にひどく恐怖を覚えたのは事実なんだから。
 幸いにしてまだそれが
 理解できないのは嬉しいこと、だ。

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