――戒めろ。

 ちょっと、わがままにつきあってもらうことにした。
 結局今日一日をこの町で過ごすと決めたからには、まあ無為に時間を過ごしてみたくなった。
 そこはただの本が並んでいる場所で、彼女にとって本というのは綴じられた紙の上にインクがのっているだけのものだから、これはほんとうにボクのわがままによるものだ。
「図書館か……。何か調べたいことでもあるのか?」
 意外にも、彼女は一緒についてきてみたいといった。
「いや。まあ、時間つぶし、かな? 全く読みたい本がないわけじゃないけど……」
 でも、ひとつひとつ彼女に説明しているのは面倒だから、適当に流した。
 専門用語は使えば使うほど突っ込まれるのは目に見えていたから。
「好きなだけ時間をつぶしてこい」
 そういって、彼女はカウンターへ向かう。司書の人に、何か聞いてるみたいだ。

 だめだ。  目当ての論文が見つからない。
 仕方ないか、とあきらめてみたとき、ふと、この場所におかれるにしては妙な違和感のあった冊子を手にとる。
 広げてみると、せりふと下線が並んだ……つまり、お芝居の脚本だった。
 なんだかこんなところでそんなものを見つけて、思わず見入ってしまった。
 何でこんな場所にあるんだろう。
 本の分類上ここにあるなら、ここは図書館としてかなり失格な部類にはいってしまうだろう。
 誰かの置忘れか、それとも意図して置き忘れたのか。
 脚本家の名前もお芝居の内容も、見たことも聞いたこともないものだ。いや、お芝居の内容自体は、ちょっとどこかで見たような感じもする。
 意外に、脚本って言うのは小説とはまた違った、読み物としての面白さがあるものだ。
 ただ――残念ながら、それがどんなお芝居かは、ボクには知りようもない。
 だって、ここに書かれたそのせりふは、役者が声としてはなったとたん、ボクには認知不可能なものになってしまう。
 そんなことを考えていたら、後ろから肩をたたかれた。
 しまった、声をかけられていたんだろうか。
 ちょっとびっくりしたけれど、ふり返った先にあったのは、ボクの見慣れた顔だった。
「ああ、メクラ、どうしたの? やっぱり帰る?」
「わたしはべつにどちらでもよい。おまえは目当てのものが見つかったのか? 何かを夢中になって読んでいたようだが」
 大まかな動作とか、雰囲気とか、そういったものは眼を使わずとも彼女は感知できるらしい。
 反射音を頼りに、壁の場所や人間の位置が訓練しだいで読み取れるというから、そういったものも、もししたらわかるのかもしれない。
「ああ、お芝居の脚本を見つけたんだ」
 舞台なんて、もう何年見ていないだろう。見てもどうせ、せりふも、音楽も聞こえない以上、意味のないものだけれど。
「お芝居?」
「何かおかしい?」
 いぶかしむというより、むしろ笑う表情に近かった。
「おまえがそんなものに興味を示したのが意外だ」
 まあ、それは自分自身で納得のできる回答かもしれない。
「どんな芝居だ?」
 彼女が聞き返す。すこし考える。ちょっと、まとめにくい。
「まだ途中までしか読んでないけれど、ユパに昔あった架空の国の、架空の土地の領主の娘とその恋人の話。恋人は、領主の父親と敵対関係にある領主の息子みたいだね」
 つまり、親の事情で結ばれない、悲恋の物語だ。そこまではふつうなんだけど。
「何だ、ありがちな話だな」
「けれど、この主人公のその娘がけっこう面白いんだ。父親のやり方に諫言したり、途中から自分の苗字を捨てて、恋人と駆け落ちをする」
「やっぱりありがちじゃないか」
「恋人とはすぐに別れて水商売に手を出す」
 惜しいな、このボクのいやらしい感じの笑顔が彼女には見えていない。
 さすがに驚いたようだが、まだ言葉ははさんでこなかったので続ける。
「その後、主人公は女優になる。だから劇中劇がいくつもあって、劇中劇の中にさらに劇があったりする。しかも、途中から彼女は彼女自身の役をしだす。そんな中で、自分は何者かを問いかけ始めたりするんだ」
 たぶん、芯のある女性で、だからこそ、その演義ができる。きっと、この役者を演じるのは難しい。
 説明しているうちに、なんとなくだけど引き込まれた理由がわかった。この主人公が、メクラにちょっと、似てるんだ。ひとことで言えば……『つよい、女性(ひと)』。
 説明し終えて、すこし、間が空く。ボクのつたない説明じゃ伝わりきらなかっただろうか。その内容を彼女は反芻しているらしい。
「……見てみたいな」
 けれど、ぽつり、ともらすように彼女はいった。その表現をしてみたのが……なんだか新鮮だった。
「見えないのに? この劇を?」
「せりふはきこえるだろう」
 反発するように、彼女は言った。
「ボクには聞こえない」
 だから思わず、ボクも強く言った。まあ、ここは図書館だからそんなに大声をあげないようにはしたつもりだけれど。
「なら、脚本をもって見せてもらえばいいんじゃないか?」
 ちょっと、衝撃的な回答だった。どう答えればいいか迷ったので、結局、当初のとおりの質問を返した。
「そういうメクラは何をしてきたの?」
 そう、彼女がこんな場所で何をするかが不思議だったのだ。
「ああ、ほら」
 紙片が、ボクの前に差し出される。彼女がそういったものをもっているというそのこと自体が驚きだ。
「汚い字なのは申し訳ないが、それは我慢しろ」
「南の島の……楽土の伝説?」
 その伝承についてが、たしかにあまりきれいとは言えない字で書かれている。でも十分読める。
「すこし興味を示していたじゃないか。点字書が幸いあったようだからな、調べた」
「点字の書物にそんなものまであるんだ……」
 あ、馬鹿にされる目線が飛んでくる。
「あるぞ? まあ、わたし自身もあらためて知りたくなったしな」
 ほら、やっぱりだ。
 そして、ふとした疑問が沸き起こったけれど、それとほぼ同時に彼女が回答を示した。
「書字版を貸してもらっただけだ。点字を打つほうがはやいんだがおまえは読めないだろう?」
 つまり、目の見えない彼女がどうして文字を書けたのか。
「書字版?」
 聞き返す。
 まただ。こんどは、そんなことも知らないのか、っていう感じだ。
「たいした道具じゃない。木枠が並んでいるだけのものだ」
 ああ、つまりルーラーであり、ガイドか。それがあれば書字は可能なんだ、文盲、ってわけじゃないんだから。
「紙代はわたしもちだ。ありがたく思え」
 言われてみれば、紙の質もふつうのものとちょっと違っている。
 文字の書かれた線にそって、すこし凹凸がある。なるほど、だから見えなくてもかけるのだろう。
「こんな工夫があるんだ……」
 誰がこんなものを考え出したというのだろう。
 いや、名前はどこかにのっているのかもしれないけれど。やっぱり、名もない偉人たちだろうか。
 だから、僕は素直に彼女に言った。
「ごめん、謝らせてほしい。それと……感謝させて、ほしい」
「何を」
「ボクは、盲に図書館は意味のない場所だと思っていたし、聾が舞台を見ても面白くなどないと思っていた」
 間が空く。返答を考えている。それとも、すでに用意されていた?
「そう考えるが、自然なのではないか?」
 まあ、わたしは変わり者らしいから、とメクラは付け加えた。たしかに、変わってる。
 思わず笑って、ああ、そうだ、と気づく。一番の疑問があったはずなんだけど、なんだか当然過ぎて気づけなかった。
「どうやってボクのことを見つけたの?」
 そうだ、後ろから、声をかけられたとき、そのことに驚いたんだ。
 どうして眼の見えない彼女がボクを『みつけ』られたのか。
「聞いただけだ。わたしの連れがどこにいるかわからないか、と」
 それが、ボクには聞こえなかった、ってだけか。
「人は一人でなど生きていけない。誰かの力を借りてもいいだろう?」
 ふっと、肩の力が抜けていくような感覚を覚えた。
 忘れてなんかいないし、そもそも忘れられない。
 その誰かがいるから、ボクがいられる。それがフィジカルであれ、メンタルであれ。
 人間すべてというけれど、とりわけボクらは、何かを欠いた人間は
 他者の働きの上に生きる
 そういう存在なのだろうということを。

▲TOP▲