006.時計ひとつ
――それが、どれだけ残酷なものであるかにはすぐに気づいたから。
しまった。
「ああ、朝はやくたつつもりだったのに……」
いまさら後悔してもおそいのだが、すっかりおそくなってしまったようだ。
無駄だとわかっていても愚痴るように言ってしまう。
「ああ、たしかにおそくなっちゃったね」
だいぶ昇ってきてしまった陽の方向をむいて、彼はもらすように言う。
まったく、おきぬけざまに理想郷について無駄な話をしたり、やっと部屋から出て朝食をとろうかと思ったら、階段から派手に転げ落ちたりして見せた奴が何を言う。
「もう10時だ、どうする? また一日ここにとどまるか? 次の町もさほどは遠くないらしいが」
だから、あえて極力表情は変えない。もしくは笑う。
それでも彼はべつに困惑しない。声が冷たいことには気づけない。
いや? そもそも声や態度に温度があるようなこの表現のほうが不自然か。
「10時? 朝の、10時?」
ふと間が空いて。彼が、困惑したような声で問う。
どうしたのだろう? 何をいぶかしむことがあると言う?
わたしのこんな態度には、もはや慣れっこだろう?
「たぶんな。これだけ日が照っていて、夜ということはなかろう。ああ、そうか、そう言えば北にいくと夏には白夜というものもあるらしいがな」
陽のなかなか沈まない夜というのはどんなだろう。子どもたちも、浮かれて夜更かしをするようなものなのだろうか。それとも、べつにその地に住まう人にとってはそれがあたりまえだから、ふつうで自然で残酷な日常という日々がやはり流れていくんだろうか。
遠い異国に思いをはせるのは……それでも愉しい。幸いにして、自分がまだまだ若い証拠らしい。
まあ、結局北とは逆方向にわたしたちは進んでいるけれど。
「……なんで?」
やはり彼は、混乱している。困惑している。
わたしは、彼にそれを与えるような行為をしただろうか?
むしろわたしが混乱して困惑しそうになったとき、その理由は彼からの問いによって判明した。
「視力を必要としない、時刻を告げるようなものがある?」
ああ、なんだ。そんなことで、疑問に思ったのか。
「いくらでもあるだろう? 時計とか、鐘とか。この町では定期的に鐘を鳴らす習慣はないらしいが、まあだいたい一軒にひとつは柱時計があるからだな」
わたしは、聞こえてきた数を数えてみただけ。それだけだ。
「時計?」
眉根を寄せるような、いぶかしむような。とにかく、そういう動作をひとつきっと加えている。
表情を変える動作は、他人のためだけでなく自分のためにもするものだ。
「たぶん、おまえの真後ろではないか?」
振り返る動作。たぶんそれをした。
わたしはそこから音をききとった。
「あぁ……なんだ」
どうやら、納得したらしい。たぶんそこに、柱時計があるんだろう。
わたしは……その音がなければ、そんな時計ひとつにさえ気づけない。
「……わたしは数を数えていただけだ」
もらすように言ったが、どうやら彼には『ききとれた』ようだ。
「そんな……そんなことに過ぎなかったんだ」
何だろう。いつもと、すこし声の調子が違う。まるで、人が落胆したときに発するため息のような。
「偶然、おまえの死角にあっただけだ」
だから、思わずそういってしまった。
そう、こんな時計ひとつにさえ気づけない。きっと、それが悔しかった。
偶然、それは彼の死角にあっただけ。それだけだけど。
「そうだね……。ところで、どうして戸惑ったの?」
たぶん、少しあった沈黙の間に、首をふる動作をした。きっと何かを、振り切りたい。
その何かが、痛いほど、わかるのに言葉にならない。
「何をだ?」
だから、彼の問いに答えた。
「この町を、今からたつことを」
すこし、笑ってさえ見た。
「ここほどおいしい紅茶が飲める保障はないだろう」
軽い冗談にさえ聞こえるかもしれないが、ほんとうに、気に入っているのだ。この香りはいい。心が安らぐ。
「違いない」
ああ、この声の調子をしたときは、たぶん、さびしそうな笑顔をまとっている。
大丈夫。そう、声をかけてあげたくて、それでも、迷った。
時計ひとつ
そんなものにさえ気づけなくても、たぶん人は生きてはゆけるものだけど。