002.わたしに会えなくて残念だったね
――わたしは目が見えない。
「おまえは後悔しているのか?」
口調は変えない。声の抑揚も、さほどいらない。
表情などはじめからつける必要もないから、声の大きさは一定でいい。
ただ、きちんと発音することだけは心がける。身振り手振りも、正直を言うとこれは苦手なのだが、なるべく加える。
そうしたほうが彼にとっては『きこえ』易いからだ。
彼は聾だ、耳は聞こえない。わたしたちの会話は、だからすごく不自由だ。
一応、彼の顔のある場所に、彼がわたしの唇の動きを読み取れる場所で、彼に向けて発言はしているのだが、わたしの目の前に彼の顔がある保証はない。
沈黙。
物音。火が燃える。虫が飛ぶ。風が吹く。
真の静寂なんて、この世には存在しない。
「後悔?」
幾拍かおいて、彼はわたしの発音したままに問う。すこし語尾が上がっているから、不審に思っての発言だとわかる。
軽く首をひねらす動作でも加えていたのかもしれない。
「わたしとともに、こんな旅をしていることを」
すこし、さびしそうな顔をした。気がした。
ひとつ、引っかかったキィ・ワード。それを彼に掘り下げさせようとしただけだ。
彼自身が、妙に強く否定していた気がしたから。つまりは、己が天賦の才能をもっている、あるいはもっていたということを。
「まさか」
すばやく否定した。わたしが発言してからの間は、ほとんどない。
何を。何を、求めていたんだっけ。
「……これは何かを得る旅か?」
さて……ともに旅を続けている理由はなんだったろう。ふいそんなことを思って、わたしは彼にきいた。
何かを。何かを捜し求めての旅ではあるのだとは思う。目的が全くなく当てのない旅をしているわけではない。ただ、それがあまりにも漠然としているものだというだけで。
「君にとってはどうなの?」
彼の問いや指摘は――大概が正確で、そのぶん、深くて、痛い。
「わからない」
すこし、違う。もしかしたら。
「もしかしたら、棄てる……旅かも知れない」
なぜ、と問われても、困るのだけど。
いろんなものを失ったはずなのに。
光でさえも失ったはずなのに。
何かまだ、自分の中に余計なものがあるような気がしてならないのだ。
「人生なんて、無駄なものごとだらけだよ」
ほら、いつだってそう。
そもそも彼は、人の表情の変化に敏感だ。当たり前だ、声についた色を読めないんだから。
きっと、わたしの己では見えない微細な表情の変化でさえ読み取って。問いはそれにあわせて作られる。
「とりあえず食べて、寝て、そのために、稼ぐ。それから、余った時間で考える。それの繰り返し」
思わず、笑った。
「働く必要のないものは考え通しだな」
軽い皮肉を込めていったつもりだったが、むしろそれにも的確な指摘としての返答がかえる。
「考えなきゃいいんだよ。そうすれば余計なものがたまる隙もない」
沈黙。静寂。虫が……火に落ちて、焼けた。もう死んだろうか。風は、すこし強くなった。明日の天気が、荒れないとよいのだけど。
「……でも、そんな時間も必要なのかな」
破滅的で、刹那的。――ニヒリスト。彼の根底には、たぶんそういったものが流れている。
けれど、それが、すこしずつ、表層的にはいろいろなことを認め始めている。厚い氷が、陽の光を受けて溶け出してゆくように。
なんとなく、そんな気がするのだ。
「残念」
「え?」
「わたしに会えなくて残念だったね」
もらすようにいったから、彼が『ききとれた』かどうかはわからない。
わずかの間を置いて、結局彼は返答した。
「ああ……。そうだね、もっと早くであっていたかった」
けれどあるいは……今でもまだすれ違っている。
「あかりを消せ。明日は早い」
あかりを消されることは一種の恐怖だ。それだけでわたしと彼の会話は成立しなくなる。
けれど、そんな中でふと思う。目を閉じることはたやすいし、瞼を下げ続けることもまた易い。ただ、人は耳を塞いだままでは生きてはいけないものだと。
そんなことを思って、不意にまた同じことを口にした。どうせ彼にはこの闇の中では『きこえ』ない。
だからわたしは今までの彼にそう言いたい。
わたしに会えなくて残念だったね、と。