――ボクの耳は、聞こえない。

「天才ではありません」
 天才的、といわれて思わずボクはそう返した。
 そう、天才なんかじゃない。彼女も、ボクも。
 ただ……努力しただけだ。
 普通の人が、普通にもっているはずのものを失い、それを補う何かを得ようと必死になっていただけだ。
 ボクがそう、きっぱりときりかえしたせいで、目の前の人物はたじろいだ。
 そして、言い訳のように付け加える。あまりにも自然に振る舞うからすこし気になっただけだ、と。
 たしかに。一見してボクらのもつハンディキャップに気づける人間は少ないだろう。
 しいていうなら、彼女の杖は旅装用としてのものとは微妙に違いがあるし、ボクは後ろから声をかけられても反応できないから、それで気づける人は気づくのだけど。
 ……そう、ボクらはあがいたんだ。ボクらと世界との格差に。
 そんなことを思って、わざとひとつため息をついてから続ける。
「例えばボクはこうしてあなたの顔を見なければ話もできないし……、彼女だって、ああ、ほら、今、カップに注がれたお茶の量を指で確認したでしょう?」
 そういって、ボクは彼女のほうを指差す。彼女にはその動作は見えていない。
 一方で――ボクは、ボク自身が話しているこの声を、正確には聞き取れていない。
「目を瞑ったまま、残量のわからないグラスの中身を飲み干せますか? 恐ろしくてそんなことはできないはずです。それに、たとえ読唇術を使えたとしても、ボクの目がその唇の動き自体を追えなければ、それは意味をなさないのと同じこと。そういうことです」
 きっぱりと。ボクは言い放った。
 どうせ聞こえていないけれど、つっけんどんな物言いをしてしまったという実感だけはある。

「迂闊な奴だな」
 たとえ焦点の定まらない目でも、彼女は必ずボクのいる方向に向かってしゃべる。
 くわえて、かなりお手本どおりの正確な発音をする。
 それが――彼女にとってボクと会話する唯一のすべだから。
「何が」
 と返したが、ボクにはその答えはなんとなく想像がついた。
「何故話した? 自分が聾だと」
 さっきの、宿の店主との会話のことだろう。彼女は当然文字も読めないわけだから、宿帳への記帳はボクの役目だ。ここの宿のお茶はおいしいって評判だったから、その間彼女はその香りと味をたのしんでいたらしい。
「べつに、とくに理由はないよ。……いけなかった?」
 自らいう気はさほどないが聞かれればそう答えるし、隠し立てをする気もさほどはない。彼女も、ボクと同じようにそう思っている、とボクも思ったから、さっきは話してしまったが。
「べつに。悪くはない」
 そして、ふっと『沈黙』が訪れる。いつものことだ。彼女の思考は、ときどき妙な方向に飛ぶ。回想も混じる。くわえて、彼女の出身の風習なんかにも独特なものがあって、それが時折発言に混じるから、ボクにとってもけっこう新鮮だ。
「……天才の話をしていた」
 そして不意にきりだされる。発言の方向が飛ぶことは予測済みだったので、『ききとる』ことは十分にできた。こういったときの彼女の発言は、ほんとうに独白のようなもので、ボクと『話す』ことを前提とした発言をするのはまれだからだ。つまり……いつもほどきれいに唇のかたちが動かない。
「ああ、最初の部分だね、それは」
 どうもそれが、キィ・ワードとして彼女の中に引っかかったらしい。それほど大きな声で会話していたつもりはないが、彼女の聴力は常人より数段優れている。
 ほとんどもらすことなくボクの発言を聞き取っていたのだろう。
「何かいわれたのか?」
 あらためてボクにそのことを聞き返しているのは、ただ単に、記憶にとどめておくのが面倒くさかっただけで。あるいは、ボク自身にその言葉を反芻させたいのかもしれない。
 時折、ほんとうにたまにだけど、彼女はボクにとって優秀な『導き手』となることがあるんだ。
「べつに。ボクが聾で君が盲だといったら、驚かれただけ」
「それを補う能力を身につけることが、天才的だと?」
「そう」
 ボクらにとっては……むしろ必然的なんだ。普通の人が普通にもっているはずのもの。それを失った埋め合わせを、どうにかしようとあがいただけ。
「それで、わたしたちが天才か」
 思わずボクらは苦笑した。そもそも――
「『天才』の定義とはなんだ?」
 彼女が問うて、ボクはしばし噤む。実際、どう答えればよいか迷った。
「天才、と呼ばれるような人物はたしかにいる。ただ、彼らが実際の意味での『天才』かどうかは、疑問に思う」
 ため息をつくのにも似てボクがいったあと。彼女がまた『沈黙』を作った。
「……彼は天才だったんだろうか」
 一瞬、とまどい。しかし、その唇の動きどおりに発音する。
「彼?」
 he。意味できる言葉としてはそれしか想像できない。
 一応語尾はあげたつもりだけど、疑問型にはなっただろうか。
「しいていうなら、わたしの人生の師」
「メクラの人生の師匠になるほどじゃ、よっぽどスゴい人だったと思うよ」
 ボクらの呼び名は、遭ったときから変わらない。
 メクラとロウ。それで、十分だ。ほんとうの名は、たぶん二人ともきちんともっているけれど――いまさら、それを使っても仕方ないから。
「実際彼は天才と呼ばれた。一方で彼自身は天才であることを否定した」
「天才の定義によるね」
 メクラの疑問を、あらためて返す。
「では天才の定義とはなんだ?」
 するとあらためて、メクラは聞いた。ボクはその疑問をずっと反芻していた。
 けれど……なかなかうまく答えが見つからない。
「そうだね……すさまじい記憶力とその有効的な利用ができうるもの、というものもいるし、常人にはありえない思考と発想をもつものというものもいる。あるいは……」
「あるいは?」
「たゆまぬ努力に、わずかなインスピレーションを加える才能をもつもの、ともいわれたりするね」
 いっているボク自身が、混乱してきた。たぶん彼女は、それを読み取った。
 彼女の『眼』は、見える目よりずっと、複雑に表情を読む。きっと、この聞こえない声についたわずかなイントネーションの違いでさえ、微細に読み取っているのだろう。
「実をいうとわたしは一時期これでもそう冠されていたことがあるぞ」
「天才魔剣士、ってとこかな?」
 彼女の剣と魔法の腕は、かなりすごい。一言でいえば――強い。
「まぁな」
 気恥ずかしそうに彼女は告白する。
 思わず苦笑した。ボクもまた……一時期そう、称されていたことがあったから。
 いまさらまたそう呼ばれることがあるとは思わなかったのだ。
 けれどそのときから、たぶんボクらは定義からすでに外れていただろう。
「『天才的』と『天才』は違う」
 最後に彼女はいった。
 ふっと……何かがボクの中で溶解した。
 ああ、つまりたぶんそういうこと。うまく、言葉にできないけれど、たぶん、そういうこと。
 やっと気づけた。自分のおごりが嫌いだった自分をすこし肯定できた。
 だから、あえてボクはいおう。ボクらは、
 天才ではありません、と。

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