六花
わたしはそのとき、少し酔っていた。
……かなり、に訂正したほうがいいかもしれない。
お酒はあんまり強いほうじゃない。正確にいうと、飲めない体質だったわけではないけど苦手だった。わたしの味覚は少し子供っぽいところがあったから、カクテルみたいなお酒以外は受け付けなかったし、あの妙な高揚感もどちらかというとなじめなかった。ふとした弾みに自分が今までの自分じゃなくなっていってしまいそうで、怖くさえ感じた。
それでも、わたしはそのとき、かなりの量のお酒を飲んだ。どうしようもなく悲しいことがあって、そんなときに限って縋る人もいないときに、どうしたらいいのか、わたしはそれ以外に知らなかった。
夕方の風は涼しくて、火照った体に心地よかった。もう少しその風を受けてもいたかったけど、家へ帰ろうと不意に思い立って歩き出した瞬間、わたしはその景色に目を奪われた。
夜と昼の境目は薄紫から赤や橙、白のグラデーションを描いていて、その景色の真ん中に、大きな夕日が浮かんでいた。夕焼けの色はオレンジ色、っていうイメージがどことなくあったのだけど、その日の夕日はなぜだか赤みが強く見えてscarlet、という単語を思い出した。ええと……緋色、というんだったけ。漢字はあまり得意ではないので自信がない。
そう、そのときわたしをさらっていった景色は、そんな血みたいな色をしていた。
*****
わたしと彼の出会いは、そんなに特殊で運命的ではなかったらしい。
実際、わたしはありきたりな恋愛をして、ありきたりな結婚をして、ありきたりな『お母さん』になるんだろうな、と思っていたし、それを望んでもいた。そして、そのときそれは現実になろうとしていた。
彼からプロポーズされたのだ。
何をどうしたらいいのかさえわからなかった。呼吸の仕方さえ忘れてしまいそうだった。
今思い起こしてみれば、それはすごく彼らしい台詞で、思わず口元が緩んでしまうくらいだけど、そのときはホントにあんなことをしてしまった理由もよくわからない。
……泣いてしまったのだ。
不覚にも、という言い方はこういう場合使っても正しいのかどうかよく知らない。というより、あのときのわたしの心情それじたいがどう記述していいのかわからない。うれし泣きだったんだと思う。20と何年か生きてきて、こういう泣きかたをしたのは初めてだった。
そして――最後でもあった。
ほんの些細なすれ違いだった。
新婚の家庭にありがちな、ちょっとした痴話げんかが元だった。
私たちは二人とも、考えてみればずいぶんと子供っぽいところがあった。だから、お互い支えあうことがとても重要な意味を持っていたと同時に、些細な衝突もよくおきた。
完璧を求めるつもりはなくとも、人は理想を追ってしまう生き物だから、それは仕方がないことだと思う。
そう、ほんの些細なすれ違い。結局、解けないままだった、誤解。
亀裂が一度入ってしまえば、崩れることはすごく簡単だった。そこに大きな刺激を加えればいい。私たちは、相手の人格を否定するくらいひどい台詞を互いに口にしてしまった。普段だったらそんなことは絶対に口にすることもなかっただろうし、たとえ、万が一、そのようなことがおきたとしても、わたしも彼も互いの人格を尊重していたわけだし愛し合ってもいたわけだから、謝罪の言葉と行為を返すことは容易だった。そう、普段の状態だったなら。
彼が正常だったかどうかは今となってはよくわからない。ただ、わたしがそのとき正常でなかったことだけは確かだ。当時のわたしの心理状態はめちゃくちゃだった。
ある意味、わたしはヒステリー状態だったのだ、そのとき。……そうだ、hysteriaの語源はギリシャ語の『子宮』だ。笑えない冗談みたいだ。
わたしの『ありきたり』を求める夢はもろくも崩れ去ったばかりのときだった。考えてみれば、わたしはほんとに普通だった。中流、よりはちょっといい家庭で育ったと思うし、だから親もちょっと厳しかったようには思うけど、それでも自分も含めて家族は『ありがち』の範疇にいる人たちだった。唯一ありがちでなかったのは、古い言い方をすればわたしと彼の関係が『駆け落ち』に近いことくらいだ。彼とわたしの両親は折り合いが悪かった。だからといって目立った衝突もなかったけれど、彼と結婚してからわたしは家との関係も疎遠になっていた。
でも、あのときはほんの少し前に、ええっと、こういう書き方をするのはよくないのかもしれない……というより明らかによくないと思うけど、当時はそう思ってしまったことも事実だから、素直に記しておこう。そう、わたしはその彼との諍いのほんの少し前に幻想を抱いていた『ありきたり』さえできない『普通以下』の烙印を押されたのだ。率直にいえば、わたしには子供を生むことが不可能だった。そのことを知ったばかりのときだったのだ、その、彼とけんかした日は。
そして、わたしがほしかった言葉とは真逆の言葉を、彼はいった。もちろん、事実は伝えていなかったわけだから伝えてくれるはずもなかったろう。もしかしてわたしがいつもと違うことくらいには気づいてたろうけど、その程度。ならば徹底的に気づかないふりをしてほしかった。わたしは慰めの言葉なんて要らなかった。ましてやわたしが否定される言葉でなど無論なかった。あえてそのときほしいものがあったとすれば、あなたの熱、それだけ。もう2度と味わえない、その感触だけ。
それでも私たちはお互いを愛してたけど、それを自覚することが今にして思えば十分にできていなかった。要は……それだけのことだったのかもしれない。
そうして、そこから、わたしと彼との亀裂は大きくなった。
しばらく彼はうちへ帰ってこなかった。わたしはその間、お酒が切れたことがなかった。とくに、あの日はひどく酔っていた。それでもまだぜんぜん足りなくって、確かコンビニへ買いにいった。何のお酒を買ったかは忘れたけど、目に付いたアメリカン・ドックをつい買ってしまったことを覚えてるなんて、人間って不思議なものだ。
そして、そう、その帰り道でわたしはそんな赤に染まった景色を見つけた。昼間の、光に照らされた世界の終わり。手を伸ばせば届きそうなほどの夕焼けに、文字通り引き込まれそうになって――わたしは失念していた。その高台の直ぐ下には雪がふったときには封鎖されたこともあるくらい傾斜の急な、コンクリートのむき出しの長い階段があったことも、わたしが大量のアルコールを摂取した後で、足取りだってままならなかったことも。
*****
それで、わたしは頭をしこたまうって、結局死んだ。
実際のところは頭が全部死んで体だけ生きてたけど、チューブにつながれたままになるのは彼がやめさせてくれた。
けんか別れしたままだったけど、終わりは比較的キレイだったからそれでいいかもしれない。
彼はその後、再婚していない。女性との目立った交際もない。わたしは……
わたしは……それでお終い、だったから。これ以上は何もない。
でも、それでもわたしはあなたを感じているから。
気持ちだけは、ずっとそばにいるから。