世界が……また少し、大きくなった。
「汝の真の名を告げよ。さすれば道は開かれん」
 北へ向かう森の中。『そいつ』は自分にそう尋ねてきた。
 聞き覚えの在る質問。
「セツラン、よ。『雪蘭花』の雪蘭」
 たぶん、見逃してはくれないだろうな、と想いつつ、いちおう今の名を名乗る。
「汝其の名に偽り在るもの……。道は閉ざされたり」
 ふぅ、と一つ、彼女はため息をつく。いやに、大人びた仕草。
「わかったわよ! 一番広く世間に知られた名はラレビル・フォ・メアード! けれど今は此の名で通してる。セツランはアナグラム。本当の名はナルス・テス。魔術士名を冠する以前の私の名よ。神名ならばノガード。ノガード・ルフェカープ。かの大戦で滅びたと謂われる神々のうち、人と交わって其の血の流れの中にのみ存在するものたちの名。だから、繋げて謂えば」
 其のために短く息を吸い込んだが、相手に先を越された。
「ラレビル・フォ・メアード=ナルス・テス=ノガード・ルフェカープ。区切って謂えばわかるけど一息で繋げるには長い名だね。それぞれを切り捨てればもっと短くなるだろうに」
 意地が悪い。
 けしてタチが悪いモノではないのだけど。
「もう全部捨てた名前なんだけど。名問いの精霊ね。『森』の門番はどうしたの?」
 わざわざ正体を隠す必要もない。というより、よく知られてしまって居る。そう想ってかなのか否かはしらないが、あっさりと自分の前に『それ』は現れた。
「いいんだ、ボクははぐれものの不良だし。あとさ、そう呼ばれるのヤなんだ、『仕事』はまともにやってこなかったから」
 やっぱり、容姿は妖精に近い。ただ、妖精にしては珍しい髪の色や服装をして居る事は多いが――
 其れにしたって自分の目の前に居る、血の色にさえ近い髪は珍しかった。
 こんなところに居る事を考えると、本当に『はぐれものの不良』なのかもしれない。
「今のは、仕事?」
 冗談を謂うような口調で、彼女は問う。
「働かざるもの喰うべからずだからね」
 実際、人間のような食物を食べるわけではない。唯単に、其の問答をする行為自体が其のものたちにとっては食事と同じ。
「真理だわ」
 名問いの精霊、いや、彼か彼女かはわからないが、とりあえず便宜上彼と呼ばせてもらおう、彼はそう呼ばれる事が嫌いなようだから、ただ精霊とだけ謂おう。
 精霊にしては、ずいぶんと軽口がたたけるものだ、とふと関心さえしてしまう。
 だから想わずそういったが、精霊は冗談めかすように、問いかける。
「悠久の流れに身をまかすものがかい?」
「悠久の流れ?」
 精霊の其の返答に対し、くすり、とだけ笑う。
 しかし其れは、ぞっとするほど、冷たい笑み。此れが、四百年の重み。
「わかってないわね……。そうね、現象と、理由と、結果はどう絡み合って居るのか」
 総て紐解いて説明する事は、多分たやすい。  けれど、違う方法を彼女は選んだ。
 其れはあまりにききなれた、一つのフレーズ。
「汝は彼の地より来たれり
 我は汝が定めなり
 其は我の使者であり
 是は滅を意味せり
 御座いと昏きに在りて
 刃夜を表せし刻
 其を朱に焼かば
 へみ大いなる
 時空より来たる
 是の大いなりし誓約為れば
 其の無からましかば」
 言い終わるまでの時間が、物理的な制約はもちろん在るが、一瞬にさえ近しい時間に感じる。
 あまりにも自然に、こぼれる言霊。
「破壊術士の……黒金の剣の、禁忌?」
「そう。あれの意図すべき事、謂って居る事は凄く簡単な事なのよ……」
 黒金の剣は斬るための剣でない。正しい鞘に収めれば破壊術士の力が増す事も在るが其の鞘とて結局いらない。
 要は、破壊術士の身分を示す証書代わりに過ぎないもの。だから、そんな事をする人間は居ない。
 居ないから、其の禁忌の内容すらわからない禁忌は、破られずにすんできた。
「黒金の剣を、決して血に濡らすな。『剣』本来の用途として使うな」
 そう、其れがあの剣の禁忌。
 其の禁忌を犯したとき――
 異界の竜は自分に呪いを降りかける。
「あの剣の禁忌は君が作ったのかい?」
「さあ、どうかしら? ただ、だとしたらあたしは、其の禁を犯した最初の人間だ、という事よ」
 其の意味するところを、知っておきながら。
「何故」
「望みを、かなえるためかしら」
 けれど禁忌は禁忌。其れは呪いとして自分に跳ね返ってくる。
 自分ぐらいの術者であれば、其れさえ御せると驕って居た事は事実だし、
 其れだけの力でなくば、かなえられない望みだったとも謂える。
 結局、失敗したのだ。総てに。
 ――望んで居た事、か。
 ――否。
「みせて、あげようか」
 一つ、首を振って呟く。「なにを、」と問われる隙を其の場に居る精霊には与えなかった。
 舞を踊るようなもの。
 口調は、ずいぶんと浪々として居る。
「術者はなぜ印を切るのか」
「――己の力を増すため」
「精神的な絆は心を磨く。心を磨く事すなわち術を磨く事」
「奇麗事だけで話を片付けられない」
「是。実際には他者を介在しての命のやり取りをする事が術を磨く。己の運命を他者に預けるという事自体が既に鍛錬」
「たかだが人間の娘がなぜこうまで巨大な力を得たか」
「竜族の血。かつて神とあがめたたえられたものの血を流す人間が居る」
「是。しかし理由は其れだけではない」
「では少女は誰と契約の印を切ったか」
「答えぬ。答えられぬ。盟約主に教えを開く事は禁じられた」
「否。そもそも盟約主は人をこえたるもの、総ての命を制したるもの。かの方のお考えを言葉に表す事ができぬ」
「其れは神か? ――否。神はかの戦で死に絶えた」
「謂いや、在る意味で神かも知れぬ。彼女は謂われた。われら総てはかの方の輿に過ぎぬ」
 自問自答。其れを上手くすり抜けてゆく。
 まるで非常に優秀な術者が其の術の構成を織り上げてゆくが如くに。
 いや、其れ自体が術と謂っていい。現にどうだ?
 自分は気を抜いて居るというのに、此処の結界はむしろ強化されて居る。
 なるほど、此れが――
「そう、此れが『ラレビル・フォ・メアード』よ……」
 彼女ほどの魔術士の盟約主がいかなるものか。其れは知りようがない。
「凄い、ね」
 話題を変えたかったのだろう、彼女は精霊の其の顔を見つめながらいった。
「あんたのひいじいさまに当たる人にあった事が在る」
「血脈も見える?」
 おや、と想って彼は問うた。
 性質上、此の精霊はお喋り好きだ。
「貴方は見えやすい。というより顔がほとんど同じだし。性格も似てるし」
「似てるんだ。いや、ひいじいさまにはお会いした事が無い」
 素直に、彼女も雑談を行う事に決めたみたいだ。
「やっぱり不良のはぐれものでね。でも、一応門番の仕事はして居たよ」
「してたんだ」
「一応だけど、ね。そう、あちらのほうが距離的には近道なんだけど、いらない問答をするのがめんどくさくて」
「でも、愛用して居たと聞くよ」
「自分の考えをまとめるにはいい場所なんだ。あそこで自分の考えを纏め上げて、其れでエルタン・ドゥナ・セーヴルのところに相談しにいく。エルタン・ドゥナ・セーヴルは毅然としてあの場に座ってうなずくだけなんだけどね」
 なつかしい。ふいに、そう想う。けれど、其れは帰ってこない日々。
 あたしは戻りたかっただけ。ナルス・テスに。
 だから其のアナグラムであるセツランを名乗ったし……
 黒金の剣も、もう棄てた。
 もどれるのか?
 エルタン・ドゥナ・セーヴルを、前にして――
「先に進むよ? 構わない」
 首を振って、彼女は問う。
「いいよ。でも其の先に『エルタン・ドゥナ・セーヴル』は居ない」
 良い。あとの事はわからない。
 案外、彼女が望みをかなえてくれるかもしれない。
 そう
「構わない。そんな事わかりきってる。私は毅然として進むだけ」
 言い放った後、ふと想う。
(あたし……単にそろそろ死にたかっただけなのかな?)
 かなえてくれるかもしれない。
 出会った。かつて自分が其の持ち主であった黒金の剣を携えたかのエルフらしき人物に――
 歩き出して、少し歩幅がまた狭くなってしまって居る事に気付く。
 やっぱり背が……また少し縮んだ。
 自分は黒金の剣の禁忌を犯してまで望みを、否、願いをかなえようとしただけ。
 ただ、単純に……
『かつてに戻りたい』
 とだけ。


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