厄介、だな。
 北へ抜ける道の中、通った森でそんな事をキョウは想った。
 其れにしても、なんだろう、此の感覚は。
 どこかで、体験したような感覚。
 懐かしい、というのは此れに近いのだろうか。よくわからない。
 其れでも確かに、此の森はかつて自分の住んで居た森によく似て居る気がした。
 そんな事を考えて居たとき――
「エルタン・ドゥナ・セーヴル」
 不意に、呼ばれた。
 そう……もしかしたら、そう謂う事なのだろうか。
「其れは私の名ではない」
 キョウは端的に的確に返す。そう、其れは間違いない。自分は、エルタンなどではない。
「……『森』の住人か」
 主語がない。目的語がない。語尾の変化もない。ただ疑問詞が入って居るだけで、キョウをそう呼んだものに対する質問とわかる。
 問いかけられた方は答えない。あるいは、其れが自分への問いと理解できなかったのかもしれない。
「……汝の真の名はエルタン・ドゥナ・セーヴルではないと?」
 いくらかの沈黙ののち、再び其の声が聞こえる。
 ただ宵闇だけが広がって居る。けれども、確かに相手の気配が在る。ならば見えずとも居るのであり、在るのである。
「真の名」
 呟くように、キョウは謂う。ただの、確認作業に過ぎない。
 そう謂えば、『森』にはそんなものを訊ねる精霊も居たかもしれない。
「私は私の真の名を知らぬ」
 一拍置く。ただの、息継ぎのためだ。
「わかって居るのは私がエルタンに造られたものでありエルタンは私を子と呼んだ事だ」
 今度は……向こうから返答が返ってきた。
「けれどもエルタンの子は」
 なにか。なにか、此の気配の主は知って居るのだろう。
「感情も、精霊に特有の能力や魔力も、そうだ、性別すら持たずに生まれてきた」
 ずいぶんと間が空いたように感じる。相手の動きが見えないから、そう感じるだけかもしれない。
 こんなフードをかぶって居るから、キョウには相手の表情の変化はさほど意味を成さない。そもそも自分が表情の作り方を知らないから、相手の其の変化にも鈍感なのだ。
 けれど、動きの変化であれば観察可能だし、もう少しわかりやすい。無論、其れを感情と結びつけてパターン化する事はキョウにはできないが。
 其れでも、向こう側はそんなに戸惑った其の発言を、キョウはやはりな、と想っただけだった。
「あの種族を指す言葉を此のあたりの言葉に直すのは難しいから、素直に『エルフ』と呼ばせてもらおう」
 向こうは、話題を少し遠回りさせる事を選んだらしい。
「あまりにも強い力を持ったため、『伝説の種』の名を授けられた種のひとつだ」
 けれど――其れも、キョウにとっては苦手なのだ。
「其れに特有の力を私は一片も持ってはいない」
 結局、元の位置に戻した。話法の技術などもとより知らぬ。核心をついた質問をされたところで、感情が機能していないのだから痛むべき心とて持ち合わせていない。
「……其の、目深にかぶったフードの下にはどんな顔が在るという? 顔のない顔か? 彼女自身の顔か?」
 くぐもった声にしか聞こえなかったが、少しききとりやすくなって居る。
 あるいはただ単に相手の動揺が此の『結界』を弱らせているのかもしれない。
「ただ、私が彼女の胎内から生まれたという事実だけでは不満か」
 自分の手には余る。憮然とした表情というのだけはできるらしい。
 あとは、溜め息と謂う動作もか。
「『森』から、エルタン・ドゥナ・セーヴルの気が消えた」
 ただ単に『森』とだけ謂えば、とくに術者の類や、超本人たる精霊たちにとって其れは此の世界の中央に位置する広大な森を指す。其処には、各種の精霊が集い、神秘が在る。人ではない種族も得てして其処に集う。
 術者の中には異界との戸口が其処に在るのだというものも居る。
 そして――其の森の覇者とも謂えるべき存在が、エルタン・ドゥナ・セーヴルなのである。
 消えるはずがない。消えるはずがないのだ、そんなものの気配は。
「其れからも暫く其の気配は見えなかったが、在るとき不意に現れた。そして其れはひたすら東へ向かった」
 いまだ相手は姿を現さない。しかし話し振りからして、もともと『森』の住人なのだろう。
「しかし気脈に乗る事もできように、わざわざ足で歩いてる程度の速度だ。其れもかなり遅い」
 そう……たしかに、ずいぶんと時間を掛けてしまった。しかし、其の気配の足取りを知って居る、という事は――
「其の気配を追って居たら善流の国に着いた」
 くぐもった声は清涼になるばかりでなく、どんどん高い音質の声に変化して居た。
 此れではもう結界は在って無きに等しい。
「森に住むものならそんな事造作もないはずなのに。とりわけ、最高位の術者だ、彼女は」
 エルタン・ドゥナ・セーヴルは、確かに森の覇者にして最高位の術者。あるいは先見といってもいいだろう。
 エルフと呼ばれる位だから、在る程度容姿は人間に似て居るが、其の能力は人間などを超越して居る。
「なのにまるで術を忘れてしまって居るようだった。唯一」
 言いよどんで居る。戸惑って居る。
 そんなことに、キョウは気付かなかったが単に間が空いたので、答えた。
「私に使える術は唯一、破壊呪のみ」
「そう、黒金の剣の気配。其れだけが取り巻いて居た」
 相手の口調の変化に、しかしキョウは気付いていない。気付けなかった。
 もちろんそういった感覚が鈍いという事も在るだろうし――
「不届き者はどこにでも居る」
 なんだ? なんだというのだ?
「森に入ろうとするもの、そこで森の掟を破るもの」
 森の掟は厳しい。そもそもあの場所は入るにも出るにも難い場所。しかし其れでも侵入者はあとを絶たない。
「大概のものは其処に棄てられる」
 おかしい。何かが自分のうちに沸いて居る。熱い、か痛いに近いだろうか。あるいは、胸に焼いた刃物を立てられたような感じかもしれない。
「だから森の一角にいけば人の屍肉などいくらでも在る」
 屈辱。此れの事をそう呼ぶのか? キョウは一旦唇をかみ締めた。そうでもしないと、此の胸の奥から沸き起こってくるもののせいで立つ事さえ叶わない。涙が溢れ出そうだったのかもしれないし、激昂しそうだったのかもしれない。
 けれどもキョウは、其れでも此の、己の胸のうちのものを御してゆく感覚をが嫌いではなかった。つ、と鉄錆に似た味が口腔に広がる。
 ――そう、だいじょうぶ、其れでも己に血は通って居る。
「其の肉に自らの血と力を分け与え人形となす。術者に無理な事ではない。とりわけ」
 其れでもキョウは続けた。相手はまだ何も発言してこない。
「とりわけエルタン・ドゥナ・セーヴルのような術者にはね」
 やっと発言した。
 ああ、と今気付く。
「其れが、私の真の名か」
 エルタン・ドゥナ・セーヴルの名を冠し、しかしエルフの力を一切持たない、彼女によって造られたもの。其れが自分。
「謂いや? キョウ、君は確かに『エルタン・ドゥナ・セーヴル』だよ……」
 目の前が少し明るくなる。光の塊が現れたかと想うと、其処には人が立って居た。
 いや、其の表現は少しおかしい。人のようなもの、としか謂いようがない。
 中性的な顔立ちに、赤紫の瞳と髪。背には羽根が在るが、いや翅と表現した方がいいだろう。其れは昆虫が空を飛ぶための器官を模した形をして居る。
 しかし、一番特徴的なのは其の大きさだろう。自分の手よりは大きい、位の大きさしかなかった。
 其れが目の前に現れたのだから、立って居た、も飛んで居た、と表現するのは正しいかもしれない。
「妖精か」
 驚きはない。見慣れて居ると謂えば見慣れて居る。其れにしては少し珍しい髪の色だとは想ったが。
「精霊だよ、分類で謂えば。でも余り関係ない。名前もないわけではないけどね、お互い余り関係なさそうだ」
「私の真の名を聞いた」
 関係ないといっておきながら自分には訊ねた。其の事を不審に想う事くらいならば、できる。
「だから、君の真の名は『エルタン・ドゥナ・セーヴル』。其れでいい」
 キョウは少し、戸惑ってさえ居るようだった。ただ、自分が戸惑って居るのだという自覚がない。
「本能的に。そう、もはや魂が答えるが如く。物事の本質を見抜き、そして己に有利な呪を術を展開する――
 此れが術者でなくてなんだという?」
 妖精、いや精霊は、そう呼ばれるにしては少しばかり意地の悪い笑みを浮かべて、キョウに問いかけた。
「其れに、ボクは初めから君を真の名で呼んだ。君が否定するから確認しただけだ」
 そう、此の手の精霊は、真の名をたずねて其の名に偽りが在るものを先へ通さない。『森』の奥に不振なものを入れないための、だから門番の一種とさえ謂えるだろう。
 其のものが認めてくれるのならば、そう呼ばれるのもよかろうとキョウは想った。あながち、間違いでもないからだ。
「……早く其の剣の鞘を捜せ」
 精霊は少し照れながら呟く。
 黒金の剣は、正しい鞘にしか入らない。破壊術士が其の剣を抜き身で持つのは其のためだ。ものを斬るように作られた刀ではないから、其れでいい。何より其の鞘は変幻自在、魔力を封じる意味さえ在れば其れでよい。
 人の肉の中だとか、とある泉の中だとかが鞘になる場合も在るし、普通に鋼や陶器が鞘となる例も在るが、どの道見つかる事は稀。
 ただ、其れが結果、此の剣の力を増す事になるのは紛れもない事実。
 せめてもっとまともな術者になれという事か。
「エルタン・ドゥナ・セーヴルは消えないし、死なない」  だからというわけではないが、自分が想った事、感じた事を述べる事にした。
 そう、此処で謂うエルタン・ドゥナ・セーヴルはもちろん、己の『母』の名。けれど――
「恐らくはそう謂う事なのだと想う」
 そう、多分そういった事。此の『力』を受ける前から多分感じ取って居た事。
「どういう」
 精霊の疑問は、キョウ自身の発言が制した。
「彼女は、人が自然と呼ぶ、其れ其のもの」
 だから消えない。だから死なない。
 其の記憶と力の一部が、
 ただ、自分の内で眠って居る、其れだけの事。


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