'm glad to see you,baby...
私は逃げた。その議論の結論から。
私が彼と再び関わることになったのは、最悪の結果が訪れてからだった。
私が成長した彼と出逢ったとき、そこには厚いアクリルの壁があった。
彼はその日、母の言いつけをはじめて忠実に守ったといっていた。
壊れたものを片付け、汚れたものを清め、そして己の過ちは素直に報告する。
だが、そうして最後に残ったのはそんな妙に冷静な対処をしたことに戸惑う自分自身と――
すでに息絶えた、今まで畏怖の対象でしかなかった母親だった、ということだった。
彼は……自分の母親を殺した。
「あんた、だれ?」
彼は、私をみるなりそういった。
凶暴性とか、そういったものはあまり感じなかった。会話をしてみても同じで知能の遅れはあまり感じなかった。
第一印象はしいていうなら『やつれている』だった。
「あなたの母親の知り合いです」
私は簡潔に述べた。彼に対してだけは、できる限り感情は取り払って接したかったのだ。……それさえ、己の甘えに過ぎないことはわかっていたけど。
「母さんの?」
はい、とだけ私は端的に答えた。彼はその痩せた顔に、ほんの少しだけ笑みを零した。
「ちょっと、驚いた。また精神鑑定の医者かと思ったから」
「医師には変わりないです。お母様の、かかりつけ医だったんです。産婦人科の、ね」
私を説明する言葉は、確かにたくさんある。彼を説明する言葉も、いくつもある。
だがそのどれもが私たちの真実すべてを描き出せるわけではないし、それだけですべてを片付けては欲しくない。
説明だけはいくらでもできる。でも同じ内容を説明しても受け取り方は人しだいだ。だが、それでも説明するのならば、つまりそういうことだった。
「XYY、という」
単刀直入に私は切り出した。は? と彼は一音節の単語に大きな疑問符をつけた。確かにそうだろう。
「お母さんから聞かされていなかったようだね。……そうか、君には話さなかったのか」
ならば、私が彼に説明するしかないだろう。説明だけなら――いくらでもできる。
「XYY症候群。通常の男性ならXYとなる性染色体が、XYYとY染色体が過剰になる。約10%において行動の異常を注目され、窃盗、放火まれには いわゆる殺人などの犯罪をおかすことがある。出床男子1000人当たり1人存在する核型で、ほとんどが身長180cm以上で、染色不能のものが少数、また精神薄弱者、異常行動者が含まれる。知能も低いといわれている」
まだ、彼は疑問符を浮かべている。大方のところを説明したところで、ひとつ大きく呼吸をする。ここから先が――重要なのだ。
「9割もが正常に『普通の生活』を営んでいて、たった1割だけだ、ということもできるし、1割もの人間がそんな残虐性や凶暴性を持っている、ともいえる」
言葉のあやしだいだ。しかし、それがひどく重要な意味を持つコトだってある。
「ムズカシい話はよくわかんないけど、それがどうかしたの?」
しかし、うすうす感づいていたのかもしれない。
「君だ」
とだけそう次げたとき、なぜか彼の表情が少しだけ変わったように感じたのだ。口の端をわずかにあげたように。
「ところで、君の母親はいくつ?」
事実関係からまず彼に説明しないといけないだろう。会話をリードするのは、それでも楽しい、と不謹慎にもふと思った。
彼は少し視線を上に向けて、質問の答えを思い起こそうとしていた。どうやら、母親の歳は覚えてなかったらしい。息子としては、もしかしたら優秀かもしれない。
「55歳だ。ちなみにそういうときは干支で考えればいい。君はけっこう高齢出産で生まれたことになる。……最初は、ダウン症かどうかを調べることを進めたんだ。高齢出産だと生まれる危険性が高いから。ああ、ダウン症というのは21番の染色体が3つになる異常で……」
「それぐらいは、なんとなくだけど知ってる」
「うん。ともかくそんな理由で、羊水穿刺という試験を進めた。結果はダウン症ではなかった。しかし余分な染色体はあった。つまり、君の性染色体は通常と異なっていた」
そう。本当に悩んだ。
「どうするか――悩んだ。この分野の研究について、少しは詳しかったからね。41歳という高齢出産で子供も2人いる、ダウン症だったら堕ろすつもりだった、それでいてこの核型だ。ここですべてを伝えて、中絶したとしたら正常であったかもしれない普通の子を殺したことになる。一方で何も伝えずに、私の胸のしまっておく方法もあるが、その後、君が何らかの犯罪をおかして――まあ、実際それは最悪の形で起こったが――そして君の核型について触れられたら私としては何も言い訳ができないしね」
そして、それが私の出した結論だった。
「だから、私は逃げた。結論が出ないことを知っていたから、当事者たちに任せることにしたんだ。そういえば聞こえはいいけれど、要するに問題を丸投げにして逃げたんだね」
だからそれは、私の罪でもある。問題を丸投げにした。その一方で、関わることを積極的に怠った。
血縁という特殊な感情でつながれた当事者たちに任せるべきだろう、という言い訳の元に。そして、気づかなかった。気づけなかった。水面下で問題はそんなにも悪化していたことに。
「バカだよね、オレが母さんの教え子たちみたくなれるわけないじゃん」
彼は、笑った。私のいわんとしていることがわかったのだろう。たしか、彼の母親は高校教師をしているはずだった。私は彼の母親にすべてを次げた。しかし却って彼女に無理をさせたのだ。
根元は……そこか。つまり、やはり私の責任だったのか。
けれど、ならば私はどうやって彼に声を掛ければいい?
「どうせ、また色々いわれるに決まっているし」
次にであったとき、彼はそういった。ここを出たらどうするのか、という話に差し掛かったときだった。
「『キレる14歳』? それとも『悲劇の14歳』かな?」
彼は……彼は、自分の母親を殺した。それがどういう状況でどういう理由だったのか、そしてどんな心境だったのか……それはきっと当事者にしかわからない。新聞記事だのニュースだのはみたし、その一方で彼の母親についてもある程度は知っている。彼自身についてもその潜在的な特性を知ってはいる。
彼は、彼の母親を殺した。そして彼の母親は、彼に虐待行為を繰り返した。『躾』と称して。そんな中で、悲劇は起こった。彼は、殺さなければ殺されると思ったといっていた。
……実際本当にそうだったかどうだったかはわからない。
だから、彼との会話は常にアクリルの厚い壁越しだった。けれど、本当に檻の中に入っているのは、入るべきはどちらだろう? ……私はもっと根源的な罪をおかしてないか?
「私は……恐れていた。恐れていたのに、怠っていた」
それが、私の罪。何を、と彼は問うた。
「一言でいえば、人間が人間を生むということに対して。そして、そのことの意味の深さを考えることを」
それでも、私は失念していた。そんな単純な考えに、思い至ってさえいなかった。
つまり……生まれてくるのは、一個の人間だということを、どこかで忘れていた。
「抽象的な物言いをされてもよくわからない」
確かに、と私は苦笑した。
一度、彼から相談を受けたこともあった。いつもどおりで、相談というより独白に近かったけれど。
「夢を……夢をよくみる。最近とくに」
夢? と私は鸚鵡返しに尋ねた。
「どこか知らないくにの、知らない時代の戦争の夢」
どう話したらいいのか彼は悩んでいるんだろう。夢など、元来は説明したりされたりするものでもない。それでも言葉は見つけられたようで、彼は続けた。
「何故なんだろう、って気にしてみたら、兵士の顔が自分のものになっている」
心理学は確かに学んだことはあるけれど、専門ではない。
けれど、その内容は私にも納得できた。納得できてしまったから……私は却って自分の罪を悔いた。また、同じことを繰り返しているだけだ。
きっと彼は、戦っている。そしておびえている。自分の中に潜む、残虐性に。
「……姉さんたちのことが、ちょっとうらやましかったかな」
そのときはたしか彼は最後にそういった。
他ならぬ彼のことをめぐってのことだったらしい。あの夫婦は、結局離婚した。彼の2人の姉は父親が引き取った。
彼らは母子家庭だったのだ。逃げたくても逃げられなかったという彼の言は、強ち間違いでもなかったのだろう。
私と彼が、であってから2年。彼は、無事にそこを出た。私は始めて一切の壁なしに会話をした。
壁がなくなって気づいたのは――やっぱり壁はあった、ということだ。
どんな状況であれ、そこには個という名の壁が人と人の間にはある。そう、思い知らされた。
ふ、とひとつ苦笑交じりのため息が自然に漏れる。
娑婆に戻った彼が一番に所望したのは、母の墓参りだった。付き添うものは私以外にいなかった。それがなんだか妙に……切ない。
「私は逃げた。君と関わっていくことでしか、私は自分の責任を取れない」
今度こそ……逃げない。私は、そう決意したのだから。
だから、と私は付け足す。そう、これはエゴだ。とてもとても身勝手なエゴだ。
「これは、私に身勝手なエゴに過ぎない。だけど、できれば――」
言葉につまる。だけど、どういったらいいのだろう。
「できれば、自殺はしないで欲しい」
わからなくって、私は素直にそういった。
ずるい。きっと彼はそう思ってしまうだろうけど、私は彼に告げた。
こんな言い方をされたら、生という名の呪縛から逃れられない。わかっていたけど、私にはそうとしかいえなかった。
私がいったことは本当のことだ。私は、彼と関わっていくことでしか己の罪を償えない。私は彼と関わることしかできないのだ。
無言で彼が私を見据える。視線がぶつかる。
――ああ、強い眼をしている。
私は、そう感じていた。眼をみて人をみるということの意味を始めてわかった。
……大丈夫。何故か、そう思えた。そして、彼はひとつ笑った。
「しょうがないじゃないか。生まれてきてしまった以上は生きるしかないんだから」
彼がつぶやく。ひどく切ない笑みだった。
私の罪の償いは彼と関わることなのだろうし、それくらいしかできないだろう。
だが、彼の罪の償いは……多分、生きることなんじゃないだろうか。不意にそんな思いが過った。
彼のいったことは、きっと生きている人間のすべてが、どこかで感じている不条理だろう。
けれどその場所が募地だというのが妙に可笑しくさえある。
彼の晴れやかとはいえない笑顔の後ろに、くすんだ色をした青空が広がっている。
そんな私を見て、彼がふとつぶやいた。
「うん、笑った顔の方がかわいいよ。せっかく美人なんだから、勿体ないじゃん」
私は、苦笑した。そんな風に彼と会話ができたことが、妙にうれしくて。
END