俺は此の『森』を変える。
 変えて見せる……
 昔、父さんと母さんと妹が居て。
 幸せに暮らしていた、あの頃に。
 『人間』が此の『森』を荒らす前のあの頃に……


 俺は、此の『森』を変えて見せる。
 例えそれが、意味の無いものでも。
 例えそれが、運命に逆らうことだとしても……


 俺は、此の『森』を変えて見せる。
 せめて……此の森に住まう皆が、昔のようにいつも笑っていられる様に。


 あの静かな水の流れが。
 今度こそ途絶えてしまわないように。


 俺は此の『森』を変えて見せる……



「そうとも…俺は此の『森』を変えて見せる……せめてあの『悲劇』が繰り返されないように……」
 それは、か細い声だった。
 だが、それは心の其処から沸き起こってくる、『叫び』でもあった。憎しみの焔は燃え盛り、彼――とりあえず、自らはギョクラン、と名乗っているが――に、一つの決心をさせる。それは……ある種の『復讐』だった。
「『此の森を変えてみせる』か……お前らしいと言えばお前らしいよ、ギョクラン」
 と、そこに現れた一つの人影。
「レンギョウ……」
 自分よりも頭一つ分高い人影に見下ろされ思わず彼の名を呟く。
「けれどな、所詮過去は過去なんだよ。過ぎた事をいっても今更……仕方ないんだ」
 ぎり、とギョクランは歯噛みする。
 そんな事位、わかっている。
 わかっているのだ。
 わかっては……
 けれど、けれど……!
 ふ、とレンギョウがため息を付く。
「わかっちゃいるけどやりきれないんだろ?まあ、仕方ないな……お前みたいに特に幼い家族がいた奴は。お前の気持ちはわからない訳じゃない……俺の兄貴もあのときに死んでるからな……」
 謂われて、ギョクランははっとした。
「兄弟……居たのか?」
 彼と知り合ったのは『あの事』があった後だったし、レンギョウは自らの過去を多く語ろうとしなかった。
「よく出来た兄貴だったよ。俺なんかよりもずっとな。劣等感しか抱いてなかった。居なくなって正直な話せいせいしたよ……けれど、やっぱり居なくなって見るとさみしいもんだって最近気付いた。俺だって出来る事なら此の『森』を元に戻してやりたいさ」
 何故だろう、心が痛いのは。
「そうだよな……けど、そんな事無茶だ」
 哀しみだろうか、それとも……
「『変える』んじゃなかったのか?此の『森』を?元のあの『森』に」
 意地悪く、レンギョウが訊ねてくる。
 え、とギョクランは思った。
 それは、一体?
「あながち……無茶でもないんだよ。その此の『森』を元の頃に戻したいって願いを叶える事は、な。少なくともお前が『森の民』である限りは」
「どういうことだ?」
 怪訝そうに、ギョクランが訊ねる。
 自分は誇り高き森の民。
 その事は常に心の中に思っていた。
 けれど、レンギョウは森の民であってもその事をあまり気にかけてない。
 寧ろ、忌み嫌ってすら居るように。
「……ひとつは、お前がいつも首から大事そうにぶら下げてる、それだ」
 といって、レンギョウはギョクランの事を指差す。
「え?」
 思わず反射的に問い返し、首から下げた一つだけの、鮮やかな蒼い色をした勾玉を握り締める。『あの時』に、親から貰った、大切なものだ。
「これは、俺も実際には見たわけじゃないからよくは知らない。ただ人からききかじった話や、本で読んだりした知識を自分なりに解釈したものだ。それと同じモノが、いや……正確には違うな、それと対になるものがあの『城』の中にある。皮肉な事に、『神』として奉られて、な」
「嘘……だろ?」
「か、どうかはまさしく神のみぞ知る、だな」
「そして此の話には続きがあってな、対となる珠……つまり、それだな……と、緋炎の珠とが合わさったとき勾玉は完全なものとなり、あらゆる願いを叶えるんだそうだ。何でも、此の森が今みたいになっちまったのもそのせいだとか謂われてたりもする」
 少し、意地悪げに。
 悪戯っぽい眼を、レンギョウはギョクランに向けて見せた。



 幾年。
 昔の話となるだろう。
 十数年。
 いや或は何十年。
 人にとっては、もう自分とは関係ない、自分達とは違う世代の話だ。
 しかし。
 それだけの年月ですら。
 『死すべき』を元来持たない『森の民』――因みに彼らは微妙に人間とは異なる種族である――にとっては。
 人が決して手に入れることを愛してやまない、老いて死ぬ事の無い肉体を持つ彼らにとっては。
 其れも『ほんの少し』昔の事なのだ。
 彼らは、悠久の時を生きる……
 別の謂い方をすれば、彼らは森の精霊である。
 彼らが人の形をしているのか、人が彼らの形をしているのか。けれど、人と彼らの間のわだかまりが消える日は、まだ、遠い。
 そう『あの事』さえ。
 『あんな事』さえなかったのなら――


 少し、息を切らしながら。
 ギョクランは、走っていた。
 内に感じていたものは、一つの後悔。
 言いようの無い、深い深い後悔。
 勿論、あの時はまだそれでも自分は幼かったけれど。
 それでも、そんな事は理由にならない。
 そう――自分のせいで。
 あの幼い妹は、死んだ。


「炎の記憶……」
 ふと。
 やや虚空を眺めつつ。
 レンギョウは呟いた。
 炎の記憶。
 自分達にとって、忘れられぬもの。
 人間どもは、馬鹿な人間どもは、其れが叶わぬ夢と気づかず、それでも奴らはこの『森』を焼き払った。いや、焼き払おうとした。
 しかし――消えなかった。
 『森』はけして、消えることなど無かった。
 けれど。
 けれど、所詮は飼いならされた自然。
 だから、『森の民』である自分にとっては、此の環境ですら。
 穢れすぎていて、なじめない。
 人間どもの間では綺麗だと囃し立てられている此の『森』ですら、既に汚れているのだ。
 ……異物感。
 ――悪い意味、で。
 胸から、熱いもののわいてくる感覚。
 『森の民』の肉体は。
 老いて死ぬ事のないその肉体は。
 その分、汚染と其れゆえの病とには弱いのであろうと。
 赤い鮮血を不規則な咳と共に吐き出しながら、ふとレンギョウは思った。
 そう、自分には残された時間は少ない。
 全く、なんと違うのだろう。
 しかし。
「ギョクランは『強い』からな……」
 やや、哀しげな瞳で。
 レンギョウは呟いた。
 そう――自分の仲間であり。
 良き相棒でもあり。
 そして、自分の弟でもあるギョクランの、幸運を祈って。



「……ハ……馬鹿みてぇ……けど……一応『上手く』は行ったようだぜ」
 息も絶え絶えで。
 満身創痍で。
 彼は、ギョクランは『それ』を突き出した。
 けれど。
 何処か冷たい瞳で。
 レンギョウは其れを、彼の手の内から放し。
「レン……ギョウ……?」
 ギョクランが、訝しんで問い掛けるも。
 ふっ、と瞳を見せずに、矢張り冷たく笑う。
 二つの、いや、『一つ』に再びなった勾玉を観るなり。
「これからは俺の世だ。富も権力も俺のもんだ!」
 彼は、冷たく叫んだ。
「――――!」
 己の内で。
 何かが弾けるような感情を、ギョクランは感じた。



 まさか、こんな事が起きるなんて――!
 それはユズリハにとって、想像しがたい事実であった。
 しかし、其れは残酷なまでに事実であった。
 『御神体』が盗まれるなんて。
 そんな事、消してありえないと思っていた。
 この結界には、何人たりとも近づけない。
 カリュウ様に守られたこの結果内に於いて。
 魑魅魍魎が取り入る隙など無いはずだった。
 これは、自分の失態だ。
 あの『御神体』の管理者を任せられたというのに――
 死を以てしてでも。
 此の罪を、如何にかして償わねば。


「ユズリハお姉さま!如何なさられたのですか? ご気分が芳しくないのですか?」
 蒼い顔をしていたのを、悟られたのだろうか。
「モクレン……」
 思わず。
 彼女は、自分の――義理の――妹の名を呼んだ。
 彼女になら。
 彼女にならば、話しても善いのかも知れない。
「ユズリハ……お姉さま?」
 ふと。
 モクレンが稍不思議そうな、訝しんだ表情を向ける。
 彼女は。
 全てを包み隠さずに自分の妹に打ち明ける事にした。


「なんて……事……」
 思わず。
 口元を袖の袂で抑えて。
 モクレンが言葉を紡ぎだす。
「……否は全て私に在ります。だから、わたくしは……」
 しかし。
 そう謂いかけたユズリハを制して。
「カリュウ様に……」
 モクレンが、言葉を紡ぎだす。
「カリュウ様にはどうせご報告しなければなりません。カリュウ様ならば、それでも何かお知恵を貸してくださるはずです。それに……お姉さまの罪は私の罪です」
 すこし。
 ユズリハははっとした。
 此の瞳。
 強い強い瞳。
 そう、矢張り彼女は――
「……そう、ですね……」
 小さく。
 溜息を付いて。
 ユズリハが答える。
 そう、それでも彼女は。
 いや、寧ろ此の瞳を見せている彼女こそ。
 自分の、姉思いの一番大切な妹だ。



 其処は、常に光の差し込む事の無い部屋――
 けれど。
 此処に『光』は必要ない。
 儀式用の蝋燭の明かりが申し訳程度に燈されて居るだけだ。
 陽光は、自分には強すぎる。
 と同時に、盲(めしい)である自分には。
 もう永久に縁の無い、そのはずのものである。
 だからこそ。
 此の地下の一室から足を踏み出す此のなど滅多に無い訳だが――
(少々……哀しいものだな。『先見』というものは)
 ふぅ、と小さく溜息をついて。
 ぼんやりと、カリュウは独りごちる。
 従者としては。
 最も優秀であるあの姉妹の足音が聞こえた。
 珍しく、戸惑いを持った歩き方で……



「全く……レンギョウの奴にも困ったものだな」
 あの二人が、入室の許可を求めるよりも先に。
 ふっ、とカリュウは言葉を紡ぎだす。
 話をややこしくしてくれたものだ。
 いや、寧ろ在るべき方向へと戻してくれたか?
「カリュウ……様?」
 訝しげに。
 モクレンが尋ねる。
「宝珠が……いや、『勾玉』が盗まれたのだな」
 何も訊かず。
 カリュウは、二人に確かめた。
「……はい……」
 小さく、ユズリハが答える。
 それでも、目を逸らしているのがカリュウにはわかった。
 だからこそ。
「それが何処にあるのか、私には解かる。ユズリハ、モクレン……其を双方の咎として命ずる。『勾玉』の元へ行け……私を連れて!」
「――――!」
 カリュウは其の台詞を口にした。
 重なる、二人分の驚愕。
 是で善い。
 後は間に合うかどうか、だけだ。
 尤も――――
 自分は先見である以上……



「遅かった、か……」
 勿論カリュウには何も『見えて』など居ないが。
 しかし……解かる。
 其処で何が起きたか位は。
 だからこそ。
 『其の言葉』は紡ぎだされた。
 モクレンは、袖の袂で口元を抑えてのように言葉を失っていた。
 人の世でなら。
 人間の世界でなら、もう見る事等無いと想っていた。
 ――誰かが、誰かを殺すところを。
「……ギョクラン」
 カリュウは彼の名を呼んだ。
 はっとして。
 彼はそちらを振り返る。
「俺、は……」
 血。
 赤い、血。
 何故、自分が。
 あの悲劇を、忘れてなどいないのに。
 感情が昂ぶるのを、抑えられなかった。
「お前は、お前が憎む『ニンゲン』と同じ事をした」
 そっと、歩み寄りながら。
 カリュウは彼にそう謂った。
 謂われずとも。
 解かっている。
「カリュウさま!」
 駆け寄りながら。
 モクレンが叫ぶ。
 きり、とギョクランを睨みつけて。
 しかし。
「モク……レン……?」
 尋ねたのは、ギョクランだった。
 この眼。
 強い、瞳。
 こんな眼を出来るものを、自分はただ独りしか知らない。
 けれど――――
「死んだ……筈だ……妹は、モクレンはあの時に!」
 悲鳴をあげてすらいるように。
 彼は叫んだ。
「―――!」
 モクレンは、ただおし黙って。
 彼の事を見つめていた。



「私は……人間です、あなたの知っている『モクレン』じゃありません……」
 彼から、目を、逸らして。
 どちらかと謂えば疲れたように。
 モクレンは言葉を紡ぎだす。
「そんな、だって!」
 叫んで。
「何を……!」
 一瞬はっとし、ギョクランはモクレンの袖をめくる。
「……モクレン……モクレンじゃないか……そうなんだろ、そうなんだといってくれ!」
 痣。
 竜の、痣(あざと)。
 自分と反対の腕の同じ位置だ。
 同じ形の痣がある。
 そうそうあるものではない。
「ギョクラン……」
 少し、悲痛そうな眼で。
 けれど決してそれが『同情』などにならぬよう、配慮して。
 カリュウは、彼を見据えて言葉を紡ぎだす。
「黙れ、『森の民』の裏切り者!お前が……お前が居なきゃ、こんな……こんな事には……!」
 知っている。
 一応、知っている。
 彼女が如何なる理由を持ってして、人の世に入らざるを得なかったかくらい。
 けれど。けれどっ……!
「ギョクラン、彼女は、一度死んだ。彼女は・・…人間だよ。それでも」
 彼の気持ちは、よく判るが。
 それでも平静に――そう、自分はけして取り乱してなどいけない―――カリュウは、呟く。
 それ位わかっている。
 確かに――自分の妹は、此の自分のせいで死んだ。



「是が……こんなものが……」
 ユズリハは勾玉を彼の手から奪って。
 憎しみと憐れみと。
 深い、深い哀しみと。
 そして何処か、解放されて報われたような恍惚感すら漂わせる表情を浮かべて。
 それを、全ての元凶である勾玉を彼女は見つめていた。
「『勾玉』!今解き放ちなさい!其の秘めたる『力』を! ……『総て』を消し去る為に!」
「止めろ!『人間』なんかがそんな事をしたら――!」
 ギョクランが彼女に飛び付く。
 否、飛び付こうとした。
 けれど……間に合わない。
「お姉さま!」
「モクレン……あなたは私の妹です。それでも、あなたは私の、たった一人の大切な――」
 そして。
 光は、彼女を包み込み。
 そして――全てを、消え去らせた。
 余りにも美しい、光だった。



「何で、お前だけ……」
 解かっている。
 そんな事位、わかっている。
「お前がさっき言ったではないか。私の事を『森の民』の裏切り者、と」
 森の民は、これ如きで死なない。
 尤も、自分が『望んだ』以上、レンギョウは死んでしまったが。
「……皮肉、だな……最後は咎人(とがびと)だけが生き残る」
 疲れた。
 どうしようもなく。
 けれど。
 ただじっと待っていたところで。
 『森の民』に『死』は訪れてきてなどくれない。
「死にたい、か?」
 返ってくる答えなど、容易に想像がついたが。
「ああ。どうしようもなくな」
 それでもカリュウは尋ねた。
「……カリュウとは」
「え?」
「カリュウとは、つまり火竜だ……」
「―――!」
「望むのならば、を御主に授けよう、御主を黄泉の国へと連れ去る焔を……」
 少し、笑みに近い表情で。
 カリュウは、彼へと呟く。
「そしてお前は独り生き続けるのかよ? 罪と孤独とをずっと、ずっと背負いつづけたまま、再び悠久の時間(とき)を―――」
 無言で。
 カリュウは、頷いた。



 もう、何処にも伝わらない伝説。
 忘れ去られた、悲劇。
 けれど……
 ニンゲンは、まだ。
 まだ、これと同じ悲劇を、繰り返ている。
 繰り返しつづけている。
 今尚、繰り返そうとしている………


 『森』は、悲鳴を上げつづけている。
 あの静かな水の流れは、消えつづけている……


END


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