ようこそ、『utopia』へ! ここはとってもいい世界よ。なんたって、あなたはどんな自分にでもなれるんだから。ま、ちょっとの元手は要るけどね。……そう、貴方向こうの世界からやってきたの。じゃあ、ちょっとこの世界は慣れないかもね。
 でも、慣れてさえしまえばここはとってもいい世界よ。なんたって、あなたはどんな自分にでもなれるんだから。誰とだって競争せずに済むもの。
あなたは誰にでもなれる。代わりにあなたは、誰でもない誰か。
 ただ、彼女は、受け入れられなかったようだけど……



 まぶしい日差しと、煩くすら聴こえる鳥の声で目がさめた。別に、なんでもない何時もの目覚めだった。やらなきゃならない事は分かってても、やっぱり進んではやりたくもない受験勉強をやらされて、塾に行って十時過ぎに家に帰って、遅い晩御飯を食べてお風呂に入って寝る。何時もの日課だったし、だから何時ものようにその日も目覚めると思ってた。強いて言うなら、そのせいで最近体重が増え始めたのが悩みだったけど。でも、確かに昨日もそんな風にくたくたになって疲れて、すぐに寝入った筈だった。筈だった。
 ……まぶしい日差しと、煩くすら聴こえる鳥の声で目がさめた。
「ここ、どこ……?」
 辺りを見回すと、あたしの部屋とは明らかに違う場所だった。ベッドと窓の位置もちがうし、ちっちゃいころから使ってて友達に見せるのも恥ずかしくなってきたくまの絵の入ったベビーダンスもない。去年の冬、暖房が無理ならこれだけは入れてって頼んだ愛しのコタツもない。ただ、あたしが熱烈に欲しがってた(来年の誕生日プレゼントか高校の合格祝いはこれって決めてるもん)本棚だけはあるみたいだったけど。でも、並んだ本の背表紙は、どれ一つとってもあたしの見たことないものばかりだった。タイトルだけでは何とも言えないけど、それから想像できる内容としてはちょっと趣味悪そうな本ばっかりだし。ここ、絶対あたしの部屋じゃない。
「ここ、変だ……」
 何が、って言われてもちょっと困るんだけど。でも、確かになんかが変だった。何かが、どこかが普通違っていた。塾や学校にいるときに、ふっと『自分は何でこんなことしてるんだろ』って言いたくなった時みたいな、あんな感じ。上手く、言葉に出来ないんだけど……
「あら。あなただれ? 私の部屋で何をしてるの?」
 やわらかいけれど、どこか凛としたところのある声だった。
「……」
 あたしはその声の主の事を見て思わず息を呑んだ。気後れしちゃうくらいの美人の顔だった。起き抜けで、顔も洗ってないし髪も梳かしてない自分の顔がここにあるんだって思ったら凄く気恥ずかしかった。
「ここ、どこ……?」
 初歩的な質問だったけど、それ以外にいえることもなかった。
「言ったでしょう。私の部屋よ。あなたこそ此処で何をしてるの? もしかして、泥棒? まさか迷い込んだ幽霊、とか言うオチはやめてよね。私、そういうの駄目なんだから」
 いや、何してるって言われても。
「……気付いたらここにいたんです、ケド」
 それ意外に何をどう言えというのだろう。逐一、気付いたらあなたのお宅であなたのベッドの上で寝てましたと説明したって同じ事だ。
「あなた、もしかして……」
 その人の説明は。余りにも現実離れしすぎてて、あたしの頭ん中で上手く咀嚼し切れなかった。


 要するに。これって、ファンタジー(健全な中学三年生ならスニーカーやファンタジアの一冊二冊、読まない方が不思議でしょ!)で使い古された『朝目が醒めたらそこは異世界でした』ってヤツ? みたい。
「ホントにあるもんなんだねぇ……」
 しみじみ言っても仕方ないには仕方ないんだけど。でも、これで毎日のうざったるい受験勉強ともおさらばして、夢と冒険と日々の始まりだ……! だなんて、そんな上手くは行かなかった。
 彼女に仕事ついでだしとりあえず、と外に連れ出されたはいいけど。
「ファンタジーって言うかむしろSFの世界だ……」
 立ち並ぶ高層ビルと、アスファルトよりもっと質のいい素材に覆われた地面。通りを行き交うたくさんの人たち……。
 千葉県民を馬鹿にするな。都内に出ることだってけっこうある。そのときに見かける光景よりはるかに未来的で……でも、朝に感じた違和感はますます強くなってた。でも、この感覚って都会に出れば誰もが一度は感じるものかも知れない。前に、学校見学で新宿に行ったとき、この感覚に似たものを感じた……ような気がする。
「どうしたの?」
 重そうなトランクを抱え(やばいものとか入ってないよね)。彼女が質問した答えに答えようとして。
「ううん、なんでもないよ……」
 ふと。自分が今まである重大なミスを犯してたことに気付く。気恥ずかしいけど、あたしは言った。言わなきゃ、彼女と会話できない。
「あ……。なんか、今更なんだけど……あの、名前、なんていうんですか?」
 そう。咄嗟の事だったし忘れてた。何より、彼女があたしに名を尋ねなかった。(けど思い起こしてみれば最初に『あなた誰』って聞かれたんだっけ。あの時にちゃんと言っとけばよかったのかな)
「なまえ? ……ああ、カオウリよ」
「カオウリ?」
 変な名前……っていうか、それ何? でも、一応聞いた以上は自分の名前を彼女に紹介しようとして。それを遮ったのは彼女自身だった。
「あら、お兄さんいいお顔。高かったでしょう? それ」
 と。ふと、カオウリ……さんは気恥ずかしさすら見せず(知り合いかとも一瞬思ったけど、知り合いだとしたらこの声のかけ方は絶対変だ)通りを歩くウォータービジネス風のお兄さんに声をかけた。確かに、その人は彼女の言う通り美形だったけど。凄いって思った。もしかしてカオウリさんって、夜のお商売系? とか思ったところで。
「ああ、ありがとう御座います。でもそうでもないんですよ、ほら」
 お兄さんは髪を少し掻き揚げた。首筋に目立つ傷跡がのぞいた。
「掘り出し物なんですよ、これ。これで100ですよ、いいもんでしょう。安く買い叩きもしたよ、傷物ですから」
「でもその髪で隠せるじゃない」
「ちょうどこの髪を買ったときだったんでね。傷は目立つけど隠せると思って。女性の顔にしようかとも思ったんですけどね」
 カオウリさんとお兄さんの会話は奇妙だった。でも、会話の内容から推測できる事はひとつだった。普通なら、ありえない事だけど……。
「顔を……変えられる?」
 誰もが自由に、誰かのかをと自分の顔を? ……じゃあ、『カオウリ』って『顔売り』のこと?
「取り替えられない顔なんてあるの?」
 顔売りのお姉さんは不思議そうに言った。
 ここは、あたしの住み慣れてきたあの世界とは全く違う……。


 通りをさらに、歩みを進める。彼女の仕事は『カオウリ』だ。重たそうなトランクの中身もなんだか分かった。あれ、顔だ。売るための顔が入ってるんだ。多分、この通りかどこかで売るんだ。もしかしたら、さっきのお兄さんみたいに声をかけて『商品』を買い付けてるのかも知れない。
 少し、怖くなった。実感が湧かない。でもこれ、今現実なんだ。あたしの目の前に確かにあることなんだ……。
 そんなことを思いながら子供みたく(そりゃあ、社会的に見ればまだまだあたしだって子供だけどさ)それでも今はこの人を頼るしかない顔売りの人の後に必至についていってたときだった。通りを歩くおじいさんと目が合った。やっぱり、いけない事だと分かってても、あんまり目をあわせたいとかは思わない。けれど、彼女が見せたのは違う反応だった。
「あのおじいさん、すっごい変わり者でね、あんな顔なのにもう5年はつけてるわよ。5年よ5年! ぞっとするわ」
 おじいさんとすれ違い。聴こえるのがやっとの囁くような声で、彼女はあたしに言った。ひそひそ話。やられるのはヤだけど、参加しないでみんなから無視されるのはもっとイヤ。そんな自分がイヤ……。
「顔を変えないのはそんなに変でいけないことなの?」
 それでもあたしがそう問いかけようと(だって本当にそう思ったし……)したとき。おじいさんは振り向いて、大声で叫んだ。聴こえてたらしい。
「わしはこの顔が気にいっとるんじゃ、五年十年、いや棺桶に入るまでこの顔で通すぞ!」
 おじいさんにはおじいさんなりのスタンスがあるらしい。顔売りさんは顔を売るのが商売だからそれを受け入れられないのかも知れない。ちょっと、周りの人の意見はどうなのかを不謹慎にも知りたいと思った。今はそれどころじゃないのに。……ますますこの世界が怖くなってた。この目の前にいる人の顔も、ホントの顔じゃない。……じゃあ、あたしのホントの顔って何?
「じゃあ為政者も顔を変えてしまうの? だったら、外交はどうなるの?」
 ファンタジーが好きだからって、文学書やなんかを読まない訳じゃない。むしろ、周りの子達より本を多く読んでるだろう、っていうちっぽけな自負があたしにはあった。だから、思わずちょっと気取った事を言ってしまった。
 でも、実際そうだ。誰もが誰でもないなら、システムなんて成り立たない。誰かが何かの役割を背負って、初めてシステムって成立するものだ。
「?その顔を持つ人がやるに決まってるじゃない。ま、そんな顔は天上人が買うものなんだろうけどね。実際私だってカオウリとはいってもそんなもの手にしたことないわ。……それに、ガイコウってなに?」
 変な制度、変な場所、とか思う前に。先ず、思ったのは。
「外交? この国には外交がないの? 近くに別の国とかはないの?」
 そのことだった。……ここは、他の場所とは隔絶されてる? それじゃあ、あたしは? あたしは、一体どこからきたの?
「そうだ、カオウリ……さん、今朝、あたしは外の世界から来た人なんだ、って言ったじゃん! 他の世界があるなら他の国だってあるでしょ!」
 支離滅裂だ。自分が言ってる事は支離滅裂だ、と思う。けど、認めたくはなかった。あたしがどこからきたか誰なのかもここでは分からない存在だなんてこと。……自分は、どこにも帰属してないの?   それ、怖いよ。
「この世界にはどうやらどこかに『穴』があいてるらしいの。あなたはその『穴』に偶然入り込んでしまっただけで……」
 それって、もしかして……
「まさか……あたし、帰れない?」
 生きてけ、っていうの? この世界で? だれも知り合いもいない、顔をとりかえられるって言うならこの顔売りの人だって明日には他人になってるかも知れないこの世界で!?
 いやだ。そんなの、絶対にイヤ……!


「ホントに顔を、自由に変えられるんだね」
 彼女の『仕事』を間近でみた。本当に、みながみな自由に顔をかえられた。
「そうよ。外の人間でも、あなただって例外じゃないわ」
 ああ、そうだ、彼女の仕事は顔売りだった。
「でもあたし持ち合わせないよ」
 お金になりそうな価値のものも何もない。働けといわれても、急には無理だし。それに、この世界で働くだなんて。だって……。
「じゃあ、今日の友達が明日の他人になってるかも知れないんだよね?」
 それ以前に、ホントの『トモダチ』なんていないんだ、この世界には。顔を自由に変えられるって言うんなら、誰もがみんな誰でもない。
 ……でも、それってあたしのすんでた世界とどこがどう違う?
 そうだ。これだ、『違和感』の正体。あたしがみんなを知らなくて、皆もあたしを知らないはずなのに、誰も何も不思議な事はないような顔で通りを歩いていってる。世界が成り立ってしまってる。
 これって、ものすごい変なことじゃない?
「そうよ」 
 ふと我に返った。そうだ、質問したのは自分自身だ。あたしの質問に、彼女はしれっと答えた。というより、それがどうしたの、って感じ。
 この世界の人たちにとっては、それが普通なんだから、当り前か。
 でも、あたしの世界とここはどう違う?
 トモコの事を思い出した。昨日……って言ってもあたしにとっての、あたしがもといた世界での昨日のことなんだけど。塾にいたせいで(あの埃まみれの空調は人の神経を狂わせる!)いらいらしてたせいもあった。その行きがけ、母親に戸締りを忘れたことを注意されてたのも苛立ってた原因だと思う。さらにいいわけするなら、受験生って言う自分の状況自体が神経変にさせる一番の原因なんだけど。ただ、そんないいわけを抜きにしても、あたしとトモコは昨日些細な事で喧嘩した。しかも、言い出しっぺはあたしの方で、トモコはそれに反論してきただけだったのに、結局昨日はそれから2時間、トモコとは全く口も聞かずに帰っちゃったんだっけ……。
 仲直り、しておきたかったな。
 あたしが、トモコのことを思い出したのが彼女にはその答えに疑問を抱いてる、っていうか、もしかしたらそれに対して、いやそうにしてる顔に見えたのかもしれない。
「誰にだってなれるもの。ここには個の恐怖はないわ」
 彼女はそう言った。
 いや、『個の恐怖』、って人類●完計画じゃあるまいし……。
「それに。自分を取り替えられるわ。個の恐怖と引き換えに、全体の不条理だってやってこない」
 たしかに、それはそのとおりかも知れない。実際、自分だって人ごみの中に紛れてた方が孤独に感じるし……だから、ここにいてもいいのかな、って自分で思うときがある。
 でも、彼女は淡々と、この世界の長所を述べたけど。
「おかしい……」
 思わず、呟いた。呟かざるをえなかった。だって。
「だって、欺瞞じゃない。そんなの」
 嘘だ。だからみんな幸せ、ここは『理想郷(ユートピア)』だなんて。絶対おかしい。
 みんな幸せ、なんて見せかけの嘘だって、現代っ子なら誰でも知ってる。誰かが幸せになった分、誰かが不幸に突き落とされなきゃならないのを大なり小なり肌で感じてる。あたしは必死で受験勉強をしてる、って言うかしてたけど、自分が志望校に受かれば定員割れでない限り(それはそれで学校の人たちが困る事だし)誰かが確実にそこを落ちる羽目になるんだ。……結局、人間なんてエゴの塊に過ぎない。
「そう? でもあなただってここの人間でしょ。望まない限りは、ここにはこられないのよ。あの『穴』を通れないわ」
 望んだ? あたしが? こんな世界を?
 怖くなった。あたしだって、そのエゴの塊の人間に過ぎないんだ。偉そうな事を言ったって、あたしだって一人の人間なんだ。人間達を愚かだって批判してるのも、また人間なんだ……。
 気持ち悪くなった。
 急に、この目の前の人も、通りを歩く人も、そしてあたし自身ですら、みんな……のっぺらぼうに見えてきた。
「全部、仮面(ペルソナ)に過ぎないじゃん」
 この世界は、嘘だらけだよ、嘘でしか出来てないよ。
 気持ち悪くなった。


 あれから、あたしがこの世界に来てから、だいたい三ヶ月くらいが過ぎたとおもう。あたしは、やっぱりこの世界に済む事を受け入れられなかった。だけど、元の世界に戻る方法もやっぱり見つからなかった。
「それで? 調子はどう?」
 淡々とした声が響く。彼女の声だ。あたしがこの世界に来ていちばん最初に出会った、カオウリの人……
「……また、顔変えたんだ。前の顔、結構気に入ってたよ、あたし」
 今のあたしには、顔がなかった。顔のないものは皆、この強制収容所に入れられる。ここにいるひとたちはみんな、顔がない。
「よくわかったわね」
 鉄の檻越しに。彼女は不思議そうに言った。顔を変えれば声も変わる。体格を変えたり、顔のパーツをばらしたりも出来る。
 誰もがなりたい自分になれる世界。
 かわりに、誰もが誰でもない誰かの世界。
「分かるよ……何となく、だけどね。仮面の裏側にある素顔を、みんな見ようとしてないだけだよ。みんなの顔は変わっても、その下にあるものは変わらないよ。見えないものじゃないんだよ、見えないって決め付けてるだけ」
 あたしは、笑って彼女に言った。 「私には、あなたが『顔なし』に見えるわ」
 それでも、彼女には見えてなかったみたいだけど。
「あたしもね、最初は受け入れようとしたんだ。だからあなたに顔売ったの。ああ、あなたの持ってきてくれた顔、いいやつだったのに次々断っちゃってごめんね。あたしに似合う顔探してたの。でもどれも違う気がして……」
 いいわけじみてる、とは思ったけど。
「別に……もう売れたわ。あんなの」
 彼女の言った事も聞き流すように、あたしは構わず続けた。
「……それでね、そしたら段々あたしのもとの顔が恋しくなって、探そうと思ったときにはもう誰に渡したかもわからなくなってた」
 彼女は今度は黙ってた。だから、あたしは顔を棄てた。そして、ここに無理矢理閉じ込められた。でも……
「でも、いいんだ。顔はなくなってもあたしのホントの顔はここにちゃんとあるって気付いたから。ほら、鏡を覗き込めばちゃんと自分の顔が見えるもん。あたしは、自分の顔の仮面をかぶっていただけ」
 房に取り付けられた鏡をのぞく。映るのは、のっぺらぼうのあたしの顔。
「私には、あなたが『顔なし』に見えるわ……」
 彼女は、少しためらってからそう言った。
 ふと。ひとつどうしても言いたかったことを思い出す。
「ねえ……この世界の人のお墓にはどんな名が刻まれるの? ううん、それ以前にこの世界にお墓なんてあるの? 誰が誰でもないのなら、死んだらそれはモノでしかなくなっちゃう。ただでさえ、みんながみんなあかの他人なのに。こうしてあたしがあなたと話してるのも一種の犯罪行為なんでしょ」
「私は、顔を変えてるから……」
 前半の質問には、彼女は答えてくれなかった。答えられなかったのかも知れない。誰もが誰でもない誰かというなら、実態ある死を誰もが知らない。
「存在した証なんて何もないんだね。何も残せはしないんだね。……哀しくない? そんなの」
「……でも、ここには個の恐怖はないわ。みんながみんな誰でもない誰か。素顔の存在しない世界は理想的と思わない?」
 二極論のらせんに陥ってる。どっちがどっちかなんて決められない。そんなの、わかりきってる事だ。でも……あたしは、この世界を否定した。
「本当にそうかな……。ホントの人間関係って、ちょっとの対立とかそういうのも恐れずに信頼しあえる関係だったんじゃないのかな」
 トモコ、トモコ、会いたいよ、トモコ……。ただ一言、トモコにいい忘れたことがあるんだ……あたしがやらなきゃならなかったこと……
「もう、ここには来ないわ。あなたのために顔を売りに来ても無意味だもの。それに、ここに来るたびあたしは不安になる……」
「いいよ、それで。それに、あたしはあなたを不安にさせるために語ってるの。あなたと、この世界の人たちみんなを。だって、この世界は来るっていうるから。間違ってるんじゃないよ、そんなの決め付けだからね。でもこの世界はどこかおかしいって、あたしは思ったから。だから語るの」
 彼女は、あたしがすべてを言い切らないうちに帰っていった。
「……ごめんね」
 トモコに言いたかった。その一言だけでいいから、言いたかった。何で、この、たった一言がいえなかったんだろう。何で、一言そう謝ることができなかったんだろう。変に意地張っちゃって……馬鹿みたいだ、あたし。それとも、本当の馬鹿かな? だから、こんな世界に連れてこられたのかな?
 ここでの『トモダチ』って、傷を舐めあうためのその場凌ぎの関係の相手に過ぎない。だからあたしとトモコみたく、喧嘩したりして対立する事もない。ホントの友達って、ちゃんと喧嘩して、意見ぶつけ合って、そういうものだよね、何でいまさら気付いちゃうんだろう。
 でもあたし、もう戻れないよ……。


 鏡をのぞいた。カオウリの彼女を追い返した時と同じように。強がりで、彼女にああは言ったけど。そこにあたしの顔なんて映ってるはずもない。
「あたしの、本当の顔……」
 でも、あたしの本当の顔ってなんなんだろう? もしかしたら『顔なし』こそがあたしの本当の顔なのかもしれない。分からない。
 言いたいことはいっぱいあるのに、あたしには顔がなくて、そのせいで閉じ込められてる。あたしのホントの言葉はもう口に出すことができなくなっちゃったんだ……
 涙が、こぼれた。あたしには、顔がないはずなのに。


 規制の価値観を崩されるのって、どういう感じだろう。今まで自分が信じてきたはずの幸せが、実はまやかしに過ぎないのかもしれない、って気付いたときの恐怖ってどんなだろう。
 むかし、確か幼稚園のころだったと思う、なぜそんな考えに取り付かれたのか分からない。っていっても元から自分は、変な考えに取り付かれやすい子供だったけど。なぜか、この世界の存在してるのは自分だけで、まわりにいるひと、お父さんやお母さんでさえ、とってもこわい怪物かなんかで、みんながみんなであたしを騙してる、って考えに取り付かれた時期があった。自分が今いるこの地面さえ、次の瞬間には形を変えてしまうんじゃないか、って。考えれば考えるほど怖くなるのに、あたしはなぜかその考えをやめられなかった。
 子供ながらに、実感なんて主観に過ぎないって気付いてたのかも知れない。主観って、とっても曖昧なものだ。でも、自分ではけして本当の客観になることは出来ない。そのためには、自分自身のすべてを棄てなきゃならない。例えば、今のあたしみたく……
 カオウリさんにも、悪い事しちゃったのかな。
 ごめんね言う相手、もう一人増えちゃった。



 分からない、分からない、分からない!
 不安になる、不安になる、不安になる!
 これ以上の恐怖ってあるかしら?
 自分の仕事を否定された事があなたにある?
 自分のすんでる世界を否定された事があなたにある?
 自分自身を否定された事は!?


「どうした? あんた、カオウリの子じゃろ?」
 ああ、この人、前に私に突っかかってきたおじいさんだ。でも……
「どうして?」
 どうして、わかるの? 私は前とは違う顔をしている筈よ、前よりずっといい顔を……
「素顔って、なんじゃろうな」
「素顔?」
「生憎とこの世界には存在しない。だが、方法によってはこの世界で手に入れられんこともない。ひとつはこの顔を決めた顔をつけつづけること。そしてもうひとつはその偽りの顔自身を捨ててしまう事じゃ……」


 何だか、いらいらする。
 馬鹿馬鹿しい。ものすごく馬鹿馬鹿しい。
「明日の、商売道具なのに……」
 いつからだっけ。この方法でお金を稼ぐ事覚えたの。もう、忘れた。
 顔の入ったトランクは弧を描いて、しばらくしてから水音を立てた。
 これも海を汚す行為なのかな、なんてなぜか場違いなことを考えてた。
 それでも、わたしは……



「危険人物?」
「ええ、そうです」
 管理局の前にいた。そして、この世界の役人に、顔を持つものを識別できるものがいる、と。


 ひそひそ話が聞こえる。やられるのはヤだけど、参加しないでみんなから無視されるのはもっとイヤ。そんな自分が一番イヤ……。


「ええ、本当の顔が見えると」
「社会規律を乱す危険性が」
「この世界を守らなくては」
「ここは折角の『理想郷』なのに」
「異分子は、排除すべきだ」
『異分子は、排除すべきだ』


 ねえトモコ、お母さん、お父さん、お姉ちゃん……あたし、どうなちゃうのかな? みんな、ちゃんとあたしのこと覚えてくれてる?
 また、涙がこぼれた。

END


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