――ならば神に、感謝をささげます。

「伝説を聞いたことがあるぞ」
 不意に、切り出す。わたしのこの『癖』には慣れっこだから、当然反応してくれるものと思っていたが。
「え?」
 わたしの発した単語が確認のための疑問に含まれないということは、彼がそれを『ききとり』そこねたからかもしれない。
 珍しい。思考というよりは、もっと感情的なものに集中していたようだ。
「はるか南の地に、水に囲まれた島がある。その地に住まう人はみな賢く、自ら食べる分だけを作り、水と太陽と緑とともに暮らすという。そんな、楽園がどこかに存在する。そんな伝説を……聞いたことがある」
 くりかえす意味で、いった。すこし、文章が長すぎたかもしれない。一度に言いたいことが多いと、ついつい早口になってしまう。早口になると、彼にとって会話の手がかりとなる唇の動きがどうしたって、なおざりになってしまう。
 普段から心がけてはいるのだけれど、ちょっとした弾みで箍(たが)が外れてしまう。
 けれどこれは、わたしだけでなく彼にも言えることなのだけど。
 仕方がない。二人とも、見えなくなどないように、聴こえなくなどないように、振る舞うほうが自然だったから。
「伝説の……楽土?」
 いぶかしむような、声、そしておそらく表情。
「と、いえるかもしれないし、いえないかもしれない。それは、わたしにはわからない」
 あくまで、幾人もの人を介して伝わった、伝説に過ぎないわけだから。
 そもそも、一日中温暖な水に囲まれた島というだけで、わたしからみればそこは楽土だ。
 そんなことを思っていたとき、彼が不意に笑った。声を上げてのことではない、ふと、もらすようにも似て、すこしだけ。
「なにがおかしい」
 口調がきついが、まあ聞こえていない。代わりに表情を極力やわらかくしたから、かえって彼は気づいただろう。
「いや、なかなかね……。楽園は大概、南の島と決まっている」
 一拍、二拍。
 すこし間が空く。問い返さない。
 彼が何か続けようとしている。その言葉を探している。
 たぶんだけど、そんな気がして。
「まあ、熱病さえなければ、人が住むのにそれほどよい土地はないだろうね。医学がもうすこし進歩すれば、ほんとうに楽園になると思うよ。……ああ、でもその前に、その土地の人にとってでなく、金持ち連中のための、になっちゃうかな」
 否定的な奴だ。だがそれも、十分にうなずける意見だ。
 ただ。
 わたしにとっては……もっと別な意見もある。
「……あるいは、そこまでにも住みづらい土地も無いかもしれない」
 そんなことを、思ったのだ。今この瞬間に思いついたのかもしれないし、それを聞いたときから漠然と思っていたのかもしれない。それがいつだったかはさほど問題ではなく。
「どうして」
「ああいう場所は、あらゆる命を受け入れる場所だ。そんな気がする」
 たぶん、彼の前にいるからそれを言葉に変換することができた。
 そう、ずっと思っていた。そういうことを。受け入れられることは、ひとつの恐怖だ。拒まれるより、ずっと恐い。
「砂漠は、あらゆる命を拒む?」
「わからない。ただ、それでもわたしたちは生きている」
 答えになっていないのは十分自覚していたが、それ以外に答えようがなかった。
 わたしに用意できた回答はせいぜいがそれだけだ。
「確かにね。そして……人間はあらゆる場所に生息する、か」
 また、間が空く。彼が言葉を探している。
 今度は、何かわたしが言葉をはさもうか? そんなことを思ったときに、彼が声を発する。
「……もしも理想郷があるとすれば」
「すれば?」
 くりかえしたことにさほどの意味はない。ただ、何かを言おうと思っていたからつい言葉を発してしまっただけだ。
「そこに住まう人は、すでに人間でないのかもしれない」
 人間でない。それを超越した存在。もしかしたら、それ以下の存在。あるいは? あるいは、なんだ?
「聖人、ということか?」
 間が空く。たぶん、うなずいた。ほら、彼もつい、こんな動作をしてしまう。
 聴取可能な言葉に変換しなければ、わたしにはその、質問に対する肯定の意図を確認することはできないのに。
「なら、ずいぶんと遠い道のりになりそうだ」
 そのことには触れず、彼に言う。もしも聖人が存在するのなら、生憎とわたしたちはかなり遠いところにいるだろう。結局、自分は自分のために生きている。
「それもそれで、楽しそうだからいいんじゃない?」
 珍しい。ほんとうに、珍しいパターンの回答だ。だけど、きっと彼の本質は変わらない。それでいい。そもそも人間の本質なんて、理解不能だ。
「理想郷は、わたしたちをも受け入れる? それとも、拒む?」
 だから、問いかけた。彼自身がどう思うのかを知りたくて。
「知らない。わからない。ただ、幸運だったのは」
「幸運だったのは?」
 くりかえして、聞き返す。深い意味はないけれど、彼がそんな言葉を使ったのがすこし珍しい気がして。
「幸運だったのは、いままでボクらが世界に受け入れられなかったことと、ボクたちはそれを望んでいないことだと思う」
 思わず、笑った。声を上げてのことではない、ふと、もらすようにも似て、すこしだけ。
「違いない」
 漠然とした――理解。
 不思議なぐらい、愉しい。本来それにはもやもやとした気持ちくらいしか残らないのだろうに。
 それでも、わたしは彼を受け入れたつもりだ。彼がわたしを受け入れるかどうかは彼の自由だし、その答えが否定でも構わないけれど、今のところは肯定的なそぶりを見せている。
 だから、もしかしたら結局、
 幸運だったのは
 二人が出合えたコト、それなのかもしれない。

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